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抽象化と具体化を繰り返して

話を聞いたり、物事を見たりして、集めた情報からなんらかの共通点を抜きとって、その傾向を一般化する。

ようするに、抽象化する思考の働きなんだけど、これがあんまり得意じゃなかったり、やらなかったりする人が時々いる。

でも、抽象化を頭のなかでそれなりの頻度で日々やらないと、物事の理解ってなかなか進まないし、いろんな発想をするのにもきっかけがつかめなくて苦労するはずだ。

自分で自分が何の仕事をすればよいかを見つけられなくて、前にやったことがある仕事以外は、仕事の形を決めて用意してもらわないと、仕事ができない。
そして、自分で抽象化して、ああこれはこういうことなんだなというのがつかめないから、外から定義してほしくなる。

抽象化することができるかどうかってほんと大事なことだ。

抽象化なしだと個別対応なんて面倒なことになる

抽象化をしないということは、極端な話、個々の事象にいちいちひとつひとつ向き合うだけになる。

これはなかなか面倒くさいし、たぶん面倒くさいからそこそこしか考えなくなる。
結果として日常の思考が圧倒的に足りなくなるはずだ。あかんやろ、それは。

しかも、個々の物事についての判断はできても、抽象化作業なしでは物事の総合的な判断や複合的な判断はできないから、まあ、いろいろ仕事にならない場面があるはずだ。

最初に、抽象化は複数の物事から共通項を見つけて一般化することだと書いたが、この一般化ができなければ、物事を種として認識できなくなる
犬や紫陽花、雲や自動車など、一般化された種として認識できなければ個別の事物をいちいち認識しなくてはならない。そんなことはありえない。

もちろん、この種別は外から与えられるので、必ずしも自分で抽象化して種を分類する必要はない。だから、抽象化を自分でできなくてもやってはいける。
他人が抽象化して、一般的な概念や、ルールや、手順や、種類に変換してくれたものを使えば、ある種、定型的な作業や認識はどうにかなる。
抽象化が苦手な人が定義をほしがるのはそういうことだ。

だが、外からそうやって与えられる以外に、自分で種別するという抽象化〜一般化の思考作業ができないなら、それはなかなか仕事をする上ではしんどい。
仕事のコツとかそういうものはだいたい「こういう場合はこうすればうまくいく」ということの抽象化による発見を経たものだからだ。
コツを自分でつかめないと、いつまで経っても個別対応になるのでなかなかしんどい。そして、そういう人に限って「やり方を教えてもらえないからできない」と不満を言いがちだ。

いやいやいや……。

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具体化も苦手だったり

そして、抽象化が苦手な人は、その逆の、抽象的なものを具体的なものに展開することも同時に苦手だったりする。自分で応用ができない

昔(すでに10年以上前!)に「デザイン思考」に関する本を書いたとき、それを感じた。

抽象化が苦手な人は、定義をほしがると同時に、定義が理解できないといつまでも定義を求め続ける。いつまでも「デザイン思考とは何か?」にとらわれ続ける。一向に具体的な実践には向かわず概念をコネコネし続ける。

でも、デザイン思考なんてものは、実際には定義なんてそんなに重要ではなくて、とにかく実践してみる、現場で使ってみることが大事なものだ(いや、ほとんどの仕事のメソッドがそうだろう)。
メソッド、フレームワーク、ツールはいろいろ用意されているのだから、それらを適宜応用して具体的な実践をしてみればよい。そうやって具体的な体験を通じて、自分なりのデザイン思考を見つければ良いだけだ。

しかし、この「具体的な」実践、体験ができない。
用意されたメソッドやツールをうまく現場で具体化できない

複数の事象から共通項を見いだせないという抽象化が苦手ということは、その逆の、すでに見いだされている共通のルールやメソッドを各々の具体的な事象に展開するという具体化の思考作業も苦手ということでもあるのかもしれない。

だが、ほとんどの仕事は、この現実から抽象を経て一般を抽出する作業(抽象化)と、抽象された一般のほかの現実への適応による検証する作業(具体化)という、抽象化と具体化の繰り返しによって、より良い成果が出せるようにするプロセスを必要とするはずだ。

これが普段から普通にできてれば、起こっている事象から傾向が読みとれるから、定義なんてなくても全然かまわないはずなんだけど、そうなってないのは、やっぱり抽象化が苦手な人が多いんだろうなと思う。

抽象化と具体化を交互に繰り返しながら、自分(たち)にとってのセオリーを見つけることこそ、仕事をする上で大事なことだと思う。

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抽象化は人間以外もする

では、抽象化(と、その逆の具体化)って、そんなにむずかしいことだろうか?

いや、たぶん違う。
これに関しては、慣れだし、姿勢の問題のほうが大きいのだと思う。

先日紹介した『森は考える』で、著者である人類学者のエドゥアルド・コーンがこんなことを書いている。

記号過程が、人間の精神と人間の精神が創造する文脈を超えて存在するということは、「一般」、つまり習慣や規則性、すなわちパースの用語でいう「第3」が「実在する」ことの証である(ここでの「実在」という語は、こうした一般が人間から独立するそのあり方のうちにそれ自体で現れること、そしてそれらが世界において結果として効果を持つようになることを意味する)。

ここでいう「一般」は、ようするに複数の事象から抽象化する思考によって共通点を見つけた結果得られるものだ。
それは習慣であるし、規則性でもある。

コーンがいうには、この一般を見いだす行為は「人間の精神」のなかだけでなく、「人間の精神が創造する文脈を超えて存在する」ということで、ようは抽象化によって、何かを一般化したり規則性を見いだしたり習慣化したりするのは、なにも人間に限った力ではないということだ。

そう言われれば犬だって、鳥だって、規則性を見いだしたり、習慣を身につけたりしているのは、すぐに思い浮かぶ。
上の引用中で言及されている「パースの記号論」の説明として、よく出される、猟師が木の幹についた傷をみて近くにいて鹿の存在を認識するという例がある。傷の形や位置をみて鹿の角による傷だと理解する認識はまさに、鹿の角による傷の共通項を見つけて一般化しているからこそできる認識だ。
そして、こうした狩猟の勘ともいえる「一般」の獲得は、より野生に近い犬や鳥などはよりできているだろうことは容易に想像できる。

そうだとしたら、抽象化という思考作業そのものはそもそもはそんなにむずかしいことではないはずだ。
むしろ、抽象化をできない(いや、しない)人は、動物的な勘が鈍って、感性が働いていないからこそ、物事を抽象化する力が働いていないんじゃないかと思ったりする。

世界は形式を成す

先のコーンの引用には続きがある。

しかしながら――そしてこのことが鍵となるが――記号過程は人間的なるものを超えた生ある世界の中にあり、それに属する一方で、形式も同様に、生なき世界の不可欠な一部であり、かつそれから創発する。
つまり、形式とは、それが生きているのでもなく、何らかの思考でもないという事実にもかかわらず、ある種の一般的な実在なのである。

つまり、この世界がおのずと形式を生むようにできているのだとすれば、その無数にある形式を見つける思考作業が抽象化ということなのだと思う。

ようするに、それは創作というよりはリサーチだ。

リサーチって、それが自然科学的なものだろうと、社会学や人類学などだろうと、いろんな情報やデータを集めてきて、そこから共通する傾向を見いだす作業なんだけど、これって別にいわゆる研究者だけがやればいいことじゃなく、普通に仕事しようとしたら当たり前にやることなんだと思う。

世の中を、日常を、自分の仕事の状況を、ちゃんとリサーチして、どうしたらより良くなるかのセオリーを見つけるという探究的な姿勢や行動をしているかということが、まともに自分で自分の仕事を見つけて実行していく上では欠かすことができない姿勢なんじゃないか。

誰かに教えてもらおう、外から決めてもらおうなんて魂胆でいたら、どんどん仕事がなくなっていくんじゃないかな?



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