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ビブリオテーク

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読んだ本について紹介。紹介するのは、他の人があまり読んでいない本ばかりかと。
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#推薦図書

ゴドーを待ちながら/サミュエル・ベケット

もう30年くらい前からいつかは読もうと思ってたサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』。アイルランド出身の劇作家で小説家の1952年の作。初演は53年だそうだ。ノーベル文学者ベケットによる、不条理演劇の最高傑作と呼ばれる作品だ。 ありとあらゆる人に語られてきたこの作品、僕からあらためて語ることなど、そうない。なので、この本を読みながら考えたことをすこし書いてみよう。 僕らにとっては不条理ではないゴドーというゴッドの抜け殻を思わせる響きの名をもつ誰かをひたすら待つエスト

ラディカル・マーケット 脱・私有財産の世紀/エリック・A・ポズナー、E・グレン・ワイル

こういう本を読みたかった。 偏った形で保有される私有財産をいかにして格差のないかたちで再配分できるようにするかの具体的なアイデアについて論じられた本を。 エリック・A・ポズナーとE・グレン・ワイルによる『ラディカル・マーケット 脱・私有財産の世紀』は、そんな欲求を満たしてくれる文字通り、ラディカルなアイデアが提示された本だ。 市場の可能性をラディカルに解き放つ一部のものに独占された既得権益をなかなか分配して格差の軽減ができない現代の社会システムを問題視する著者らは、本書で

ある島の可能性/ミシェル・ウエルベック

非接触の通信を通じてのみの他人とのコミュニケーション。そうした機会が著しく増えた生活環境になり、もう1年半以上が経った。そのこと自体には慣れたとはいえ、オフラインで人と触れる機会がゼロになることは想像できない。 けれど、そんな未来が描かれているのが、この小説だ。フランス人作家ミシェル・ウエルベックの『ある島の可能性』。描かれた時期はいまから2000年後。一生誰にもリアルでは会わずに生き死んでいくのは、ネオ・ヒューマンと呼ばれる僕ら人類の後釜をになう種族だ。 2000年後の

失われたいくつかの物の目録/ユーディット・シャランスキー

いくつの不思議な物語によって構成された本だけど、こういう博覧強記な知識に裏打ちされた本って、日本ではあまり書かれていないように思うので良いなと思った。 訳者あとがきでも評されていたが、まさに書かれた「驚異の部屋=ヴンダーカンマー」だった。 僕が好まないわけがない。 そういうわけで、旧東ドイツに生まれた現在40歳になる女性作家にしてブックデザイナーであるユーディット・シャランスキーによる『失われたいくつかの物の目録』は、ドイツで最も権威のある文学賞ヴィルヘルム・ラーベ賞を受賞

アレハンドリア/高山宏

僕の心のなかの悪魔は 凛と呟いた あいつのなかの悪魔は お前を食いつぶすと くるりの「心のなかの悪魔」の歌詞の一部だ。 何年か前に読んだ高山宏さんの『アレハンドリア』所収の「悲劇か、喜劇か 悪魔のいる英文学誌」を読み返しているとき、このくるりの曲がちょうどSpotifyから流れた。 17世紀のシェイクスピアやベン・ジョンソンの時代を中心に英文学に現れた「悪魔」について考察する小編のなかで高山さんは、こんなことを書いている。 1620年代に入り、清教徒の力が強まっていくに

アルス・ロンガ/ペーター・シュプリンガー

政治が危機的な状況だ。 生命の危機、経済の危機はもちろんのこと、政治も大きく危機に陥っているように感じる。 18世紀のフランス革命以降続いてきた民主主義的な政治の行先が危うくなってきているのではないかと思う。 僕的には、今月の初旬にジョルジョ・アガンベンの『ホモ・サケル』をタイミングよく読んだことが、この危機を明確に感じることができた理由だ。 その本でアガンベンは、20世紀初頭における「国民社会主義帝国」の形成は「医学と政治が、一つに統合されるという、近代の生政治の本質的

ボディ・クリティシズム/バーバラ・M・スタフォード

3月16日のことだから、ちょうど1ヶ月くらい前に、フランスのマクロン大統領が"Nous sommes en guerre (我々は戦争に入った)”と言ったのが、ようやくここ日本にいても実感できるようになりはじめている。 もちろん、マクロン大統領がそのとき、そう呼びかけなくてはならなかったのと同様に、いま日本のこのときにおいても、いまがもう戦争状態だと認識できている人もいれば、まったく認識できてない人もいる。 「いつになったら元どおりになるのだろう」と考えている人は戦争状態の

政治的イコノグラフィーについて/カルロ・ギンズブルグ

パトスフォルメル Pathosformel(情念定型)。 19世期後半から20世期初頭を生きたドイツの美術史家、アビ・ヴァールブルクが提唱した概念。 イコノロジー=図像解釈学の祖として知られるヴァールブルクは、「1905年10月にハンブルクでおこなわれた講演〔「デューラーとイタリア的古代」〕で、オルフェウスの死を描いたデューラーの素描をマンテーニャのサークルから出てきた同じ主題をあつかった版画に接近させた。前者の素描は後者に着想を得ている。しかし、後者は後者で、今日ではもは

ホモ・サケル/ジョルジョ・アガンベン

その者を殺しても、殺害した者が殺人罪に問われることのない生をもつ者、ホモ・サケル。 なんとも法秩序から見放されたような存在である。 しかし、古代ローマの時代においては、そうした生をもつ者が存在したというのだ。 聖なる人間(ホモ・サケル)とは、邪であると人民が判定した者のことである。その者を生け贄にすることは合法ではない。だが、この者を殺害するものが殺人罪に問われることはない。 殺しても殺人罪には問われないが、生贄として犠牲にすることは許されないという、不可解な位置を占め

綺想の表象学―エンブレムへの招待/伊藤博明

「詩は絵のごとく」。 ヨーロッパでは古くから文芸と絵画の類似性や等価性を伝える理論があるという。 確かに、いま読んでいる15世紀末(1499年)のイタリアで出版されたフランチェスコ・コロンナの『ヒュプネロートマキア・ポリフィリ(ポリフィルス狂恋夢)』を読んでいても、その描写は絵のように目に見える世界を描きだそうとしている表象が多い。 興味深いのは、目に見える世界を描くといっても、正確に描き出そうとされるのは、建築や彫刻やその他装飾の見事な出来栄え、あるいは庭園の植物や人

地球に降り立つ/ブルーノ・ラトゥール

百科全書的な知が必要になってきているということだろうか。 「アクターのリストはどんどん長くなる」。 アクターネットワーク理論を提唱する社会学者のブルーノ・ラトゥールは最新の著作『地球に降り立つ』でそう書いている。 明らかにテリトリーの奪い合いが起こっている利用可能な土地や資源が限定された地球のうえ、お互いに利害的にはぶつかり合い、侵犯し合うこともあるほかのアクターたちといっしょに「それぞれが自分の居住場所を見つけていかねばならない」僕たちは、自分のテリトリーを確保するため

ルネサンス庭園の精神史/桑木野幸司

言葉やイメージとして頭のなかにある観念やそれを用いて展開される思考と、現実そのものにはギャップがある。 人間に見えているもの、認識できているものなどは現実のほんの一部でしかないし、その認識できている一部ですら、観念や思考の対象となるのはさらにその一部でしかないので、現実の多くは人間の思考からは捨象されている。 だから、ギャップが生じるのは当たり前である。 人間の認識的限界から勝手に生じているギャップもあれば、人が意図的に捨象することで生みだしているギャップもある。それらが混

植物の生の哲学/エマヌエーレ・コッチャ

どうすれば良いか?を考える際、何を判断基準とするかが問われる。 何を信じて行動するか?という話だと思う。 その基準を再考することがここしばらくずっと問われているのだろうなと感じている。 根拠も乏しい思いこみであれこれ言うのももちろんどうかしているのだけど、科学的根拠や統計的エビデンスを持ちだしたところで、それも思いこみにすぎないことがわかってきているのではないか? 科学的にも統計的にも無理だと考えられることだって可能な場合はあるのだし、その逆だって十分ありえることを僕らは

道化の民俗学/山口昌男

現代の社会の倫理性を考える上でとても示唆に富んだ一冊だ。 山口昌男『道化の民俗学』。 1969-1970年にかけて2つの雑誌に連載された論文をもとに1975年に単行本として刊行された50年前に書かれた論だが、いまのようにコロナウィルスが世界中を巻き込んで人々の危機感を募らせた状況になると、いともたやすく互いに互いを蔑視し罵倒するようなことが当たり前のように起こってしまう、過度に繋がりすぎた現代社会にこそ、たくさんの学びを提供してくれる内容だと思いながら読んだ。 それにして