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言葉とイメージの狭間で

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ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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#デザイン

線を引く(「非デザイン論」に向けて)

線を引く。 デザイナーが線を引き、歴史家が線を引く。 空間の線があり、時間の線がある。 線によって、奴らと僕らは区別され、あなたと私は結ばれる。区切線と接続線。敵と味方。 「と」。 接続詞としての「と」は、二者をつなぐと同時に分けてしまう。 線が引かれているから、接続詞「と」の出番が生じる。 区切ることと接続することは一見逆のことをしているようで、実は同じことの裏表でしかない。 線と言語線を引くことは認識することである。 こっち側とあっち側。内側と外側。対象とそれ以外。

デザイン力としての分解と組立

なにかをつくる上で大事なことの1つは、ものごとを要素に分解して考えることができ、その分割して理解した要素を元にその時々に適切な組立を行えることだと思う。 世の中のサービスデザイン系、UXデザイン系のフレームワークの多くは基本そのためにある。 ビジネスモデルキャンバスしかり、 カスタマージャーニーマップしかり、 サービスブループリントしかりだ。 いずれも共通しているのは、最終的にビジネスやサービスで使われるモノやシステムのデザインではなく、そのビジネスやサービスが何なのか

新しい夢をみる

なんとなく悲しい気持ちだ。 近代デザインの出発は、誰もが他からの強制(力)を受けることなく、自らの生活様式を決定し、自由なデザインを使うことができるのだという前提を条件のひとつにしていた。 これは『近代デザイン史』(柏木博編・著)という本に所収の「近代デザインに向かって」中の編者でもある柏木博さんの言葉だ。 この「自らの生活様式を決定し、自由なデザインを使うことができる」という創造性が気づくと何処かに消えてしまっているように思った。 柏木博さん自身、 それは理想的生活

大人のカンニング

よい仕事をする上で、自分ごと化が大事だとはよく言われる。 対象となる課題の解決に、当事者意識をもってコミットできるかということである。 当然、当事者意識を持つためには、対象となる課題についての理解が必要だ。 理解のためには知識がいる。 誰もが知っているように有効な知識の獲得と理解にはそれなりの労力がいる。 つまり、知識の獲得と理解がそもそも課題解決にあたる以前の課題となるわけだ。 だから、実際の仕事に取りかかる前の、知識の獲得と理解というそれなりに労力が必要なことをすると

僕らは世界にアフォードされながら創発的に発想してる

自分の発想がどこから生じるのか? 自分はどうやって仕事をしているのか? 部分的にオフィスワークを復活させてみて、5日ほど出社してみたけれど、あらためて感じたのは、そんなことだ。 まわりに生きた世界がないと思考がちゃんと働かず、まともな仕事ができないなーというのが、明確にわかった気がする。 その意味では、オフィスに出社すれば良いというだけでもない。 むしろ、オフィスに限らず、いろんな現場に足を伸ばしていろんなものを観察し、いろんな話を聞かせてもらう機会を増やすことが大事だ。

デザイン経営における共生志向民主主義

世の中的にも話題になり始めているように、リモートワーク環境下に移行したことで「仕事をしている」かどうかの判断基準が、オフィス(など、仕事の現場)に参加していることから、実際にそれぞれの人がどんな成果を出したかへとシフトしてきている。 以前から問われることのあった「会議で何も発言しない人はどうか?」という問題も、その流れでいけば、会議に参加してるだけで何の発言もしない人(議事録を作成する係でもないのに)は、その時間、成果を出していないのだから、仕事をしていないということになる

同期型と非同期型

何週間か前から週に2日か3日のテレワークを行ってはいたけれど、今週は月曜日を最後に自宅での仕事が基本となった。 すでにテレワークを始めていたこともあって、家で仕事をすること自体は慣れてきた。 けれど、今週は会社のほぼ全員がことで、オフィスではなく、インターネット空間がバーチュアルなオフィス空間となったことで、逆に忙しさが増した。 Zoomでのミーティングに、Slackでのやり取りが相手が見えないが、ゆえに遠慮なく入ってくる。そして、よりテレワークでの共同作業をスムーズにする

経営とデザイン

ありもしないものに期待したり、不満を言ったり。 存在しないブラックボックス的な機能を勝手に仮定して、そこに自分たちの責任を転嫁する思考停止の状態を見かける頻度が増えている。 責任転嫁の対象は、存在はするがその責任を必ずしも担っていない相手だったり、あればよいがそんなもの存在するわけがない架空の存在だったりする。 よくある「隣の芝生は青い」的なものも同じだ。 目の前の問題の解決をまずは自分で引き受けようとするよりも、架空の責任主体を仮想して、そこに期待したり不満をぶち撒けた

混合の形而上学

僕たちはどんな世界で、どうやって生きていくのだろう。 そんなことを考えてしまうとき、いま読んでいるエマヌエーレ・コッチャの『植物の生の哲学』という本になんとなく穏やかな気持ちにさせてもらっているのを感じる。 わたしたちは、こういってよければ地上の居住者ではない。わたしたちは大気の中で暮らしているのだ。 僕らは大気のなかを泳いでいる魚のようなものだと気づかせてもらったとき、世界の見え方がはっきりと変わった。 僕らは何もない空間に存在しているわけではなくて、何もないように見

やりたいことをやるためのスーツ

「スーツがないとダメならスーツを着る資格はない」 映画『スパイダーマン:ホームカミング』の劇中、「スーツなしじゃ僕はなにもできない」というピーター=スパイダーマンに対して、トニー・スタークが言う台詞。 これって、ヒーローのスーツに限らず、他にもさまざまな人間の機能拡張ツールやメソッドに対して言えることだ。 スーツの力を本当の意味で知るためには、スーツを着ていない時の自分の力をよく知っている必要がある(理論的にそうであるはずという話。だって、ヒーローのためのスーツなんて着た

UXとユクスキュル

UXとユクスキュルは似ている。 いや、語音だけでなくて、その基本となる考え方が。 19世紀後半から20世紀前半を生きたドイツの生物学者のヤーコプ・フォン・ユクスキュルは、動物それぞれに異なる世界の見え方、認識のされ方があるということを示したことで知られる。 環世界と呼ばれる、その有名な考え方は、UXが前提としている点と重なっている。人それぞれで世界の見えかた、生きている環境の世界認識が異なるがゆえに、その違いを理解した上でデザインを行わないと、デザインする側の「良い」とデザ

品質を想像する

自分用のメモ程度に簡単に。 プロジェクトが良い結果に終わるかどうかのポイントのひとつは、品質に対する想像力だろうなと思っている。 「品質」はプロジェクトマネジメントの知識体系であるPMBOKにおいても10の知識エリアのひとつだが、ここをどれだけ大事にできているか?で、プロジェクト全体の良し悪しは変わってくると感じている。 品質を起点とするプロジェクトを実施する上で、設計が大事だというのは、以前から繰り返し書いていることだし、先日も「設計が役に立つ理由」というnoteを書い

設計が役に立つ理由

一発勝負のイベントごとなどで、何かしら予期せぬ出来事に出くわしたときにも、慌てることなく臨機応変に正しい対応を選んで実行することができるかどうかを左右するものは何か? それは外でもない。 事前の設計と準備だ。 何ができればよいかを知っているリアルタイムで進行するさまざまなイベントごとで、監督やファシリテーターとしての役割を担っているとき。 多くの場合、予期せぬ出来事に際して焦ってしまうのは、突然目の前に現れた想定外の事柄に、その先、どうすればよいかの指針が見当たらなかったり

判断力の根っこ

仕事をする上で大事な能力のひとつは判断力だと思う。 異なる選択肢が2つ以上ある場合、何を選んで仕事をその先の段階に進めていくか。はたまた目の前にある作業の結果を良しとしてそのまま進めるか、良くないとして修正に戻すか。 何かをつくりだす仕事は当然として、その他たいていの仕事のなかには、こうした「判断」の場面が日常的に何度も発生する。 判断基準があらかじめ明確になっていて、それに照らし合わせて判断すればよいことももちろん数多くあるだろうが、それと同じくらい基準は明確になってい