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言葉とイメージの狭間で

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ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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#知識

安全なイメージのうしろに危険な現実を隠して

最近本気でちょっと怖くなっている。 何が?って、世の中の反動的な傾向が、だ。 COVID-19をきっかけとした世界的な危機の兆候がみえはじめてから、気づけば、この日本でもすでに半年ほど経っている。 危機的状況の長期化によって、経済はもちろん、人それぞれの精神的にも大なり小なり打撃を受けている状況だろう。 こう弱った状態になれば、誰しもが、まわりのいろんなものが敵に見えてきてしまうのは、ある意味正常な反応である。 もちろん誹謗中傷や暴力で他人を傷つけてしまうのは決して許され

知と善悪

知らないというのは、とても無責任なことだ。 いまのように平常が壊れると、よりいっそう知に対する姿勢が問われてしまう。 なにかについて知らなければ、その対象に対して配慮することはできない。 相手のことをわかってあげなければ、相手を慮ることはできない。 今みたいに普段どおり振る舞うことができず、自分自身も含めて、つねに普段どおりじゃない状態にある他人や社会を慮りながら行動しなければさまざまな不具合や衝突が起こってしまうような状況では、知るということは、他人や社会との適切な関係

わたしたちは各方面からわたしたちのところにやってくるさまざまなニュースの間断なき喧騒から身を引き離すよう努めなければならない

久しぶりにテレビのニュースを見ていて、唖然とした。 緊急事態宣言の発効を伝える内容なのだけど、中身がほとんどない。いろんなものが削られてまさに換骨奪胎。まったくコミュニケーションになっていなかった。 アナウンサーの喋っている言葉も、映像や音声の切り取られ方も、テロップなどで出される文字情エッセイ報も、このたくさんの命に関わる状況を改善するために、それを見ている人が正しい判断をし行動をとるための一助となるような有益な情報を何も伝えていないように感じた。 いや、何も伝えていな

境界に立ち秩序を混沌へと反転する

既知の領域にとどまってみずから閉塞的な状況を生み出してしまっているのに、その状況に不満をいう。 好奇心をもって未知を歓迎しないから、限界を超えることができず、可能性が広がらない。 なのに、ジョーゼフ・キャンベルが『千の顔をもつ英雄』で書いていたような、不思議の領域に旅立ちイニシエーションを受ける神話の英雄のようには、慣れ親しんだ場所を離れようとしないから、文句を言うばかりで状況は何も変わらない。 英雄はごく日常の世界から、自然を超越した不思議の領域(X)へ冒険に出る。

新しい研究の場

まだ思い浮かんでいない、自分がこれからやりたいこと・実際したいことを見つける想像力も、その源泉となるのは知識の蓄積なのだと思う。 自分の頭のなかに十分に多様で、それなりの量のある知のアーカイブがなければ大した想像はできない。大した想像じゃなければ、それにワクワクするのはむずかしく、あ、これやりたいとはならないだろう。 自分の人生、ワクワクしたものにするためにも、やっぱり知の蓄積というのは欠かせない。 学ぶことは楽しい知らなかったことを知る。知るということは何か別の知らな

知能と限界

いまできることを前提に自分たちがやることを限界づけてしまう発想はキライだ。 そういう話を聞くと、気持ち悪くもなる。 何でもかんでも無謀なチャレンジをしろとも一切思わないけれど、やりたいと思うことがあるなら、いまできるかどうかで簡単に諦めたりしない方がよい。 どうやったらできるようになるかプランを検討してみたり、小さくチャレンジすることを積み重ねて目標に届くよう試してみた方がいいと思う。 結局、それも自分でやりたいことを作れる想像力があるかないかということとも関係しているの

想像の過程における知識の分割と統合

想像力が不足している。 勉強が足りなくて想像のための素材の手持ちが少なすぎて想像できないこともあれば、想像するためのスキルが伴っていないというそもそもの問題で想像できないこともいる。 前者は、料理をするのに必要な食材や調味料が揃えられていないという問題であり、後者はそもそも料理ができないという問題だ。 けれど、そういうスキルと素材の部分はちゃんと満たしている人でさえ、なかなか自分の「外」をしっかり想像することはむずかしい。それは得てして、「外」だと認識しているものが実は自

英雄視しない

週末、岸田劉生を観たこともあって、明治期の知識人のことについて考えてみたくなった。 明治期の知識人たちの現代人とは比べものにならない知への欲望、自己研鑽の徹底について、もうすこしちゃんと知った上で、考えてみたくなったからだ。 それで、いまこそ、そのタイミングと思い、1年くらい前に買っておいた夏目漱石の『文学論』を読みはじめた。 青年の学生につぐすると、「序」にさっそくこんな一文を見つけた。 青年の学生につぐ。春秋に富めるうちは自己が専門の学業において何者をか貢献せんと

優れた人は、読書家である

ちょっとびっくりした。 1つ前で『時間は存在しない』を紹介したnoteの反響のあまりのなさに。 自分ではとても面白い本だと思って紹介しただけにこの反応の薄さは予想外。 内容的にも「時間が存在しない」という衝撃的なことを物理学的に分かりやすく教えるものだし、世の中的にもよく売れてたりもするから、自分自身の紹介の仕方がよくなかったのかなと反省している。 まあ、それは仕方がないこととして、今回は、その本の内容自体の驚くべきすごい思考の展開もさることながら、もう1つ驚かされた著

知識を深める、とは

知識を深める。 簡単に言うが、いまひとつピンとこないワードではあった。 でも、今日そのことについてピンとくる説明にあった。 解像度を上げる1つには「解像度を上げる」ということ。 何らかのテーマについて、どれほど解像度高く理解できているかということ。 どういう状態が解像度が高いかと言えば、特定のテーマを提示されたとき、そのことについて、どれだけ長い時間、さまざまな角度から語り続けられるか?ということだろう。 確かに、それならピンとくる。 僕も1時間でも2時間でもずっと語

日常の味わい

学びと反省。 それらによって世の中の見え方はすこしずつ変わっていく。学びが世界の見え方を鮮明にしたり、反省によって世界の見え方は書き換えられる。 僕らは世界をそうやって味わっている。 2つの味はちょっと違って、前者はいろんな味のバリエーションはあれど美味しさとして、後者はほろ苦さとして感じたりするが、どちらも自分のなかに新しい何かが吸収されたシグナルなんだろう。 専門性ではなく日常的一般性で引き続き八木雄二さんの『神の三位一体が人権を生んだ』を読んでいるが、この本、なにげ

思いがけない出会いを呼びこむ

ひそかに取り組んでいたこと、別々に手がけていたことが何かのきっかけにつながって、より面白い展開が新たに見えてくることがたまにある。 そういうときは「おおっ」と思って、本当に興奮する。 念じれば通じるというのを信じているわけではないが、何か仕掛けておくと、そこに何かが引っかかってきて、新たな展開が生まれるチャンスが得られやすいということは信じている。 僕自身の経験からいうと、特に、あまり人が手をつけてない領域で、たぶんこれから見込みがありそうなと予感がしたら手をつけておいた

変化と知識

昨日紹介した『流れといのち 万物の進化を支配するコンストラクタル法則』の番外編。 著者のエイドリアン・ベジャンによる知能と知識に関する、こんな区別についても紹介しておきたい。 もし物理学現象としての知識と知能を区別するとすれば、知能は知識を所有したり、創造したり、伝えたりする人間の能力ということになる。 まず「物理学現象としての知識と知能」っていうのがいいよね。知識や知恵まで物理学の現象として捉えようとする徹底した姿勢。 で、物理学現象としての知能がそんな風に知識

持続可能な社会のためのシステム的思考

いまの時代、物事をシステムとして捉え、思考する力が何より必要だと、強く感じる。 いま読んでいるエイドリアン・ベジャンの『流れといのち 万物の進化を支配するコンストラクタル法則』は、そのタイトルにあるとおり、世の中のさまざまなことを「流れ」に着目する。「流れ」という観点で考えることで、生物に限らず、あらゆる進化が世の中の流れや動きをより良くするためのデザイン変更であることを提示する。 力の生成と消費と動きは、進化の統一的見解を提示する。この見解によって、動物のデザインと