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意見を求められる人と煙たがられる人の違い

考えたアイデアや企画などに、意見を述べてくれる人っていますよね。

自分じゃまず考えつかないような視点で、「おおっ!」と驚く切り口を出してきたりするんで、他人の意見はけっこう大切だったりします。

なんですが、そのように意見を言ってくれる人の中にも、

・つい相談したくなるような、「まずはあの人に意見を求めよう」となる人

・あの人の意見はいつも面倒臭いな。余計なお世話だよ。

となる人に分かれることがあります。その違いはなんだと思いますか?

ぼくなりの見解を言いますと、これは「粗探しで終わってるかどうか」で決まると考えています。

つまり、意見を求める場において、いつも煙たがれる人たちというのは、たいがい重箱の隅を突くような粗探しをして欠点を伝える。ただそれだけを繰り返すんですね。

一方で、「この人に意見を求めたい!」となる人たちは、欠点を指摘した上で、代替案や解決策を述べてくれます。

しかも、その代替案や解決策が具体的かつ効果的であればあるほど、その人に対する信頼度はグングン上昇します。

そもそも、ぼくはよくこの場でお話ししてるんですが、世の中にある全ての事象は、どれもトレード・オフの関係にあります。つまりどんなモノも『あちらが立てばこちらが立たず』という状態にあるんです。

なので、粗探しをすれば100%サルでも(差別用語だとわかってますが、アホらしすぎるんで啓蒙の意味を込めてあえて使ってます)見つけることができるんです。

しかも、粗探ししかできないような人が口に出す代替案としては、ほとんどが「そんなもんやめてしまえ」といったものです。

確かに、そのように強い意見をズバッと言える人がいれば、組織やグループとしてはピリッと引き締まります。「あの人に口を出されんようにせんと、、」とスタートの段階から思考をめぐらすことにもつながります。

ですが、とはいえやっぱり粗探しまでしかしないのは、どうしても低脳的と言わざるをえません。

そもそも組織やグループを構成するのは、生産性を高めたり、人間1人じゃ不可能なことを力を合わせてやり遂げるためじゃないでしょうか。

なので、組織やグループが存在する意義を考慮しても、粗探しだけで終わってしまっては、なんの成長にもつながりません。粗探しだけで終わってしまったら、なんの気づきもありませんし、価値観の変動も起こりません。

もちろん、そもそもとして「こいつらを困らせてやろう」という気持ちを前提に、あえて粗探ししかしない人というのは、社会の場にはいないでしょう。(いたとしたら、人間として未熟にもほどがあります)

なので、粗探しばかりになってる人も、その人にとっては全力の意見投与のつもりです。

ですが、やっぱり組織・グループ全体の成長を願っているのなら、欠点を伝えた上で『自分なりの改善策・代替案』は述べていきたいですね。

田辺輝恭

ReveDunJourプロジェクトは"夢”に特化し、子どもたち若者たちへ夢の持ち方・叶え方を発信しています。世界で夢を叶えてきた達成者たちが在籍。彼らから知恵と考え方を絞り取ることを是非としています。大和の心で我が儘に。