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2022年2月 読書の記録

すっかりさぼってしまった!!ちょっと形を変えていこうと思ってますが、読書記録は引き続き書いていきます。がんばろう。

今さらだけど2月の分から。

目録

  • 海に住む少女(シュペルヴィエル)

  • チャリング・クロス街84番地(ヘレーン・ハンフ)

  • 永い言い訳(西川美和)

  • 哲学の蠅(吉川萬壱)

  • 盆栽/木々の私生活(アレハンドロ・サンブラ)

  • 白痴 1(ドストエフスキー)

  • 暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて(ル=グウィン)

  • 酒場の文化史(海野弘)

  • ここに物語が(梨木香歩)

  • 戦争は女の顔をしていない(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ)

箱根本箱にて

2月はブックホテル「箱根本箱」に行ったのだった。温泉に入っておいしいご飯とお酒を摂取して、あとの時間はひたすら本を読む。のだけど、元を取ろうとして睡眠時間を削ってまで本を読むので、心身を整えにきたのか崩しにきたのかわからなくなる。去年行ったときもそうだった。

今回読んだのは、『哲学の蠅』、『盆栽/木々の私生活』、『コーヒーと小説』(未了)。

1冊目『哲学の蝿』の吉川萬壱は初めて読んだ。めちゃくちゃ面白くて、滞在日のうちに読み終わったけどきっとまた読み返すだろうと思い、買って帰った。

世界の「正当性」を破壊しながら、人間存在の根源的な部分を抉り出し、現実への違和感を物語に託して世に放つ異端の小説家・吉村萬壱が、デビュー20年の節目に著す初の自伝的エッセイ。(中略)ニーチェやコリン・ウィルソン、井筒俊彦やヴィクトール・フランクルなど種々の著作のほか、映画作品や断片的なメモなど著者が血肉としてきた広義の「哲学書」を取り上げ、それらと創作との結び付きを考えながら、読むこと、書くこと、ひいては生きることそれ自体の意味を問う。

創元社HPより

けっこう壮絶な経験をされているし、自分とはまったく異質なタイプの人だと思う。どん引きしながら読んだ箇所も大いにあるが、一方で「文字によって世界を摘まみ食いする」という思想には惹かれるものがあり、本に対する執着をつづった箇所などは「わかる」「せやな」を心の中で連発していた。

ところで私の場合、本屋でのこのような直感(この本は自分にとって重要な本だ)が外れたことはまずない。なぜなら私にとって本というものは内容もさることながら、パラパラと頁を繰った時に目に入る漢字と平仮名とカタカナの比率や好きな単語の有無、装幀、紙質、段組み、インクの匂い、手触り、重さといった要素が極めて重要で、本屋ではその全てを直接確かめることが出来るために大きく外しようがないのである。

わかる、わかるぞ

この引用部分にもあるように装幀にも大変こだわっていて、表紙は白塗りの壁を凸凹のあるこてで均したような、独特な手ざわりの紙に、濡れたような文字が印刷されている。本屋で見かけたら、手にとって装幀だけでも見てほしい。そのこだわりの強さに惹かれる人も、きっといるはず。

『盆栽/木々の私生活』のアレハンドロ・サンブラも初めて知った。チリの若手作家とのこと。箱根本箱には1.2万冊ほどの蔵書があるそうで、館内の全ての本棚を見るだけで1時間はゆうにかかるのだけど、こういう有名どころでない作家や作品を知ることができるのでとても楽しい。この本は完全にタイトルに惹かれて手に取った。失ったものへの眼差しが印象的な小説。

この本を読んだのは明け方の5時すぎ。吹き抜けが通る2階の読書スペースに置いてある革張りの安楽椅子が心地よく、自分ちにもほしいーと思った。というか置いてある家具がぜんぶすてきなので似たようなものがないかいちいち検索してしまう。ショップ奥のキッズスペースにあるプフ(硬いクッションみたいなやつ)の座り心地が最高で忘れられなくて、小さいの(別メーカーだけど)を最近買った。

『コーヒーと小説』はコーヒーロースターを営む庄野雄治さんが編んだアンソロジー。同じシリーズの『コーヒーと短編』のことは以前からチェックしていて、見つけたら買おうと思っていた(3月に買えた)。

小説編は途中まで読んだ。とくに岡本かの子の「鮨」という作品がとてもよくて、もっと早く出会いたかった!前回本箱に行ったときはアンナ・カヴァンと須賀敦子に引き寄せられたが、今回は岡本かの子と小川洋子に呼ばれていた気がする。

あと宮沢賢治の「水仙月の四日」という作品。なぜか実家にこの本があって、幼い頃に読んで不思議な物語だなと思っていた。20年ぶりくらいに読み直してこんな結末だったっけと思いつつ、本当に繊細で優しいお話でこれもまたよかったな。

不条理な世界のための童話

ストーリーや作家の思想と同じくらい、文体が気になる。シュペルヴィエルというフランスの作家の『海に住む少女』の文体は、私がとても好きな類のものだった。

寝てるときに見る夢のような短編たち。夢みたいに非現実的な設定なのに、物語の輪郭がしっかりしているのが強く心に残った。表題作も、「飼葉桶を囲む牛とロバ」「セーヌ河の名無し娘」「空のふたり」「牛乳のお碗」あたりもよかった(多い)。

表題作の主人公は、ある船乗りが自分の幼い娘をモデルに空想した、海の中の街に住む少女。ただの空想から本当にその存在が生まれてしまい、誰にも気づかれず孤独なまま永遠に生きているという話。真に孤独で、哀しくて愛おしい。いろんな感情がないまぜになる。

大好きな光文社古典新訳文庫。訳者の永田千奈さんによる紹介文もすばらしい。

不条理な世界のなかで必死に生きるものたちが生み出した、ユニークな短編の数々。時代が変わり、国が違っても、ひとの寂しさは変わらない。

裏表紙より

稀代のストーリーテラーが考えていたこと

『暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて』は、ル=グウィンの生前最後のエッセイ集。ル=グウィンといえば「ゲド戦記」のイメージが強くて、といいながらゲド戦記は未読なのだが、エッセイを読んでこのSF作家が少し身近に感じられるようになった。

戦争や高度経済成長や9.11を経験して、2018年に亡くなるまで精力的に執筆を続けた彼女の言葉は平易だが、しなやかで強い。とくに、物語をつくることにかける姿勢にははっとさせられる。

私は自分の物語が自分にとって何を意味するのか、少なくとも部分的には知っている。同じ物語が、あなたにとってはまったく違うものを意味することは大いにありうる。そして、1970年にその物語を書いたときに、それが私にとって意味していたことは、1990年にそれが私にとって意味していたこととも、2011年の今、意味していることとも、まったく異なるかもしれない。

ホメロス『オデュッセイア』など〈旅〉の物語について書かれた部分から。

ジョーゼフ・キャンベルのようなユング派の人たちは、このような旅を、原型的な出来事やイメージのセットの形に一般化した。そういう一般論は批評においては役立ちうるが、私はそういうものは信用しない。致命的に還元主義的だからだ。「ああ、『夜の海の航海』ね」と私たちは叫び、何か重要なことを理解した気になる。だが、私たちは単にその名前を知ったに過ぎない。実際にその航海が始まる前には、私たちは何一つ理解してはいない。

キャンベルの「千の顔を持つ英雄」もとても面白い本だったけど、この一節から、数々の本(特に人文系の)から感じてきた一般化/形式化への圧力のようなものを、拒否してもよいのだというふうに考えるようになった。あらゆる物事が共通の形式に当てはめられるというのはすっきりすることかもしれないが、それは人間の創造力を過小評価することにつながってしまうのではないかと感じていた。もっと自由に、有機的にものごとを考えられるようになりたいと、水面下で感じていたのかもしれないと思う。

語りの揺らぎ

これまで読んだどの小説とも違う、鮮烈な印象を抱いたのが西川美和『永い言い訳』だった。ある物事にたいする意識の濃淡も色合いも、もっといえば物事の在/不在も当人たちの中でくいちがう、その揺らぎを描いた物語だと思った。

ある出来ごとが二人の間で共有されていても、それに対して何を思うか、そもそも思うことがあるのかについても、見えない差があることが常であり、ドラマなどを見ていて違和感を感じるひとつの理由がこれだなと思った(もちろんテレビドラマには尺に限界があるし、全ての人のケースをあたってたらストーリーが進まないので現実的に不可能なのは当然として)

ドラマの場合、ストーリーを進めるための出来ごとが起こると、関係する登場人物みんなが同じくらいの熱量でその出来ごとに向かっていくみたいなシーンがあったりするが、そもそも現実にはそんなことは起こらない。Aさんにとって重大な出来ごとが、身近なBさんにとってわりとどうでもいいことだったり、Cさんにとっては関連する別の出来ごとの発生のほうが重要かもしれない。Dさんに至っては、その出来ごとがまわりの人間にとって意味のあることだということすらわかっていないかもしれない。

出来ごとに対する意識の深さもちがうし、場合によっては意味合い、色合いまでちがう。それぞれの主人公が言ってることやってることが他人、あるいは本人の言動とさえ食い違うのは、どちらが間違ってるというわけではなくどちらにとっても真実なのだと思った。

例えば作家の愛人による述懐が前半に出てくるが、作家の日記や作家視点の場面ではほとんど愛人のことが登場しない。せいぜい2回くらい。しかし愛人に電話をかけるシーンで相手の女は、妻の死後ずっとそのことを後悔し続けていたと話している。これは、愛人が二人の関係に想いを馳せる重さに比べて作家のそれが極端に少なく、結果として二人に認識の差があるということを示している。

こういうことはドラマでは表現が難しいと思うが、小説であればこそ再現ができるし、むしろそこが小説の強みなのかもしれない。結局のところ共感とか没入感はリアリティから生まれるし、リアリティはディティールから生まれるからだ。そしてこの物語は、ル=グウィンいうところのストーリーもありつつ、プロットに語りの揺らぎがあるからこそディティールが生まれている。

言われたこと、書かれたことが全てだと割り切ってしまうことはその濃淡を無きものにする。私が気にするあれこれは、相手にとって無なのだという教訓ではなく、ただ、その前提を忘れて人と相対することなんてできないということだと思うなどした。

ドストエフスキーとの再会

ドストエフスキーの『白痴』を読み始めた。最初の数ページを読んで、あれ?と思った。思ったより読みやすいしとっつきやすい。なんとなくドストエフスキーを避けてトルストイばかり読んでたが、これならいけるかもと思った(安定の光文社古典新訳文庫だから、というのもあるかもしれない)。

自分のよくない癖で、次々と起こる出来事にばかり気を取られてしまう。亀山郁夫先生(在学中の学長だったので絶妙な親近感がある)による解説を読んで「ああ、あの人物はそういうことを考えてたからそういう行動をしたのか」と気づかされることがあり、浅い読み方しかできてないなと思った。解説を読んで初めて知る当時の風習などもあり(それは2巻目以降のほうが顕著かも)、バックグラウンドの理解もこの際しっかりやりながら読み進めようと思っている。

戦争は女の顔をしていない

いつか読まねば、と思いながら積読にしていた。買ったときには、世界がこんな状況になるとは思ってなかった。

作者はウクライナ出身、ベラルーシ育ちのスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ。第二次世界大戦で、ロシア側に従軍した女性兵士たちの証言を集めた「文学」だ。漫画化されたものをTwitterで見て、この原作のことを知った。

当時、打倒ドイツを掲げて参戦したソ連とその周辺国から、百万を超える若い女性が戦場に赴いた。野戦病院や通信関係などの後方部隊だけではなく、銃をもった兵士としても。アレクシエーヴィチは、その当時ですでに高齢に達していたおばあさんたち一人ひとりに聞き込みを行い、当時何があったのか、何を感じていたのかを書き取っていく。

地獄を見たのは戦場でだけではない。戦後も、彼女たちは「積極的に殺人にかかわった存在」として、女性どころか人ですらないような存在として疎まれ、遠ざけられた。政府によるプロパガンダの影響で、闘うことが正義だと思い込んで出征したあげく、辛い戦争経験を誰にも話せないまま老いていく女たち。人生の終盤でようやく、話を聞いてくれる若いジャーナリストと出会って、少しは心の重荷が減ったと思いたい。

筆者が育ったベラルーシは今は親ロシアの独裁者に支配されている。ノーベル文学賞を受賞しているにもかかわらず、彼女の本は政権に阻まれて刊行されていない。

今ウクライナで起こっていることを、アレクシエーヴィチや当時の戦争体験者がどう見ているか、考えても言葉が見つからない。彼女の故国では刊行されていない『戦争は女の顔をしていない』もロシアでは広く読まれているという、そんなことすら何かの拠りどころにしたくなってしまう。罪のないウクライナとロシアの人びとに、一日も早く平穏が戻ることを願う。

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