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2022年10月の読書記録

今年は本を買いすぎたので、11月以降はもっぱら積読消化に努めています。
読みかけの本が何冊あるのかわからんけど、どこまで読めるんだろうか…

目録

  • 驚きの介護民俗学(六車由美)

  • 快楽の本棚(津島佑子)

  • 「ほとんどない」ことにされている側から見た社会の話を。(小川たまか)

  • プロジェクト・ヘイル・メアリー(アンディ・ウィアー)

  • シンプルな情熱(アニー・エルノー)

  • 昔日の客(関口良雄)

  • STONER(ジョン・ウィリアムズ)

  • 読書からはじまる(長田弘)


聞き書きの文学が引き続きおもしろい

意外にも、この月いちばん面白いと思ったのは六車さんの「驚きの介護民俗学」だった。「意外にも」と書いたのは、タイトルの〈介護〉〈民俗学〉というワードや、重厚な雰囲気の表紙からは、少しアカデミックで硬派な内容を想像していたからで、その印象は冒頭からいい意味で裏切られた。1日で読み終えるほど楽しい読書だった。

聞き書きというスタイルに昔から惹かれる。文化人類学にしろ民俗学にしろ人間を知ろうとする学問はいくつかあるけれど、一番リアリティや生々しさが残るのが、この「ただ相手が話すことをそのまま記述する」という地味な手法だと思うからだ。
いま読みかけで止まってる「東京の生活史」だって聞き書きの部類に入るのだろう。(今度は「大阪の生活史」が出るらしいですね)

「参与観察」という言葉を使って、筆者は、介護の現場に入りながら民俗学的な観察を行う様子を説明している。曰く「対象の社会に入り込み、現場に身を置いて、自分の目で見、耳で聞き、手で触れ、肌で感じ、舌で味わった生の体験をもとに調査を進めること」。

このときに大切なのが、「分厚い記述」ができるかどうかだという。つまり、見たままの姿をただ記録するのではなく、相手の発言や行動に含まれる意味を解釈して読み取り、その解釈を書き留めていく作業のことだと。

それを実践するように、筆者は認知症のおじいさんが口にした「存在しないはずの電車の路線」について、市の歴史文献までたどって調べたという。その結果、誰も知らなかったその路線は実在したことが証明される。
「認知症の人の言葉は、(話されたそのままの意味では事実に反する可能性があるので)〈言葉の裏〉にあるその人の気持ちを推して知るべし」という、なんとなく持っていた一般通念のようなものがひっくり返された。

介護の仕事をしながらだからきっと大変だろうと最初は思ったけれど、読んでいると、筆者がそういうことをとても楽しんでいることが伝わってきた。

印象深いのは、認知症などを抱えている相手の語る事実と、その人の家族が知っている事実が違う、ということが往々にして起こるという話。以前から断続的に読んでいるアレクシエーヴィチの作品について「事実とは多面的なものである」とどこかの書評に書かれていたのを思い出した。

また、聞き書きは聞き手が一方的に情報を得るためのものだと思われがちだけれど、そのやりとりをとおして、話者もまたある種の変化を受け取っている。

聞き書きをしていてよく経験することなのだが、本人はたいしたことがないと思っていたことでも、私たちにとってはとても面白かったり、意味を持っていたりすることは多い。そうした私たちの反応を目の当たりにすることによって、話者本人があらためて自分の人生の価値を再発見していくのである。

介護現場という一見学問とはかけ離れた場所で、誰も知らない歴史やエピソードを探り当てていく筆者の姿をみていると、人間を知るための手段は、大学や本の中だけで見つかるものではないということを痛感する。

他人の本棚が気になる

他人の本棚、とくに作家や研究者が本棚にどんな本を置いているのかに興味がある。だから、本屋などでそういう人たちが書いた「本棚系」の本を見つけるとつい手に取ってしまう。自分に関してはおそらく、本を通してその書き手と何かしらのつながりを感じられるのが楽しいんだと思う。

津島佑子「快楽の本棚」も、三鷹の古本屋でたまたま見つけたもの。

内容はしかし、特定の本に対する感想というより、本や小説をとりまく人や世間というものに対する考察といった文章が多いように感じた。読み始めには須賀敦子の「遠い朝の本たち」を思い出したりもしたけれど、津島さんはもっと、自分の内心をさらけだしているように見えた。その目線の冷静さは一瞬ひやっとするほど。

今はインターネットの時代になっていて、小説などますます読まれなくなっていると、よく言われるし、それは事実ではあるものの、じつは、小説を書きたがる人たちの数はどんどん増えているという。自分を語りたいという人間の根本的な欲望が、コンピュータ文化にはけぐちを見出している、ということなのだろう。 
人間は不思議なことに、どんな時代でも「物語」を自分の存在に求めているし、「物語」によって、相手を理解しようとし、社会に生きようとする。そういう生き物が、人間という存在なのだ。そして本質的に「うわさ」の構造を持つインターネットやマスコミに翻弄され、既成の社会に依存する言葉に圧倒されればされるほど、そうじゃない!もっとべつのことを知りたい!自分の言葉を見つけたい!という切実な願いがつのってくる。

まだ津島さんの小説は読んだことがないけれど、閉じた自分の世界で作品を作るようなタイプの小説家ではなくて、世の中のできごとや身の回りに注意深く目を向けながら、作品の種を見つけるタイプのクリエイターだったんじゃないかな、となんの根拠もなしに思った。(そして今回検索して初めて、お父さんが太宰治だったことを知った)
最初に読むとしたら、どの作品がいいんだろう。

物事をありのままに、透徹した目で描写する作家はほかにもたくさんいるけれど、この月に読んだ「シンプルな情熱」には静かな衝撃を受けた。今年のノーベル文学賞を受賞したアニー・エルノーというフランスの作家の作品。

エルノーの自伝的な作品とも言われるが、ある女性が過去の不倫関係についてひたすら回顧するという内容。感情がほとばしるままに書くのではなく、あくまで淡々とした口調でさらっとすごいことが書かれているが、全体がとても静かな空気を帯びているのでその内容のすごさに気づくのがちょっと遅れる。自分自身の思考すらその冷徹な観察の対象となり、まるでひとごとのように自分の欲情すら分析しているところにびっくりした。でも文体のまとう空気感は好き。

あらすじは一回横に置いといて

めったに雑誌は買わないけれど、先日@premiumの読書特集が出ていたので買ってみた。
その中でいろいろな人が大切な本を紹介している企画があり、作家の井上荒野さんが紹介していた一冊がジョン・ウィリアムズの「ストーナー」だった。

ちょっと話が逸れるが、先日読んでいた書評家・三宅香帆さんの寄稿記事に「あらすじを書かない書評」という内容があって、心の底から「わかる…」と思った。

しかし一方で、書評を読む身になってみると、あらすじ紹介に終始している書評ほどつまらないものはない。……と言い切ってしまうと語弊があるかもしれないが、もちろん、本のあらすじを読んで「面白そうな本だな」と感じることはたくさんある。書評ではきちんと内容紹介されないとどんな本かわからない、と怒る人もたくさんいるだろう。

だが、私はどうせ書評を読むなら、その本を読んで何を考え何を感じたのか、その感想や思考を読みたいのである。その感想が魅力的であれば、自分もその本を読んでみたいと思うものだ。

ある本が良いなと思うときに、あらすじの良さ(つまりストーリーの流れ)がその印象に影響している度合いって実はそこまで高くないのかも?というのが今年本を読みながらよく感じていたことで、「ストーナー」についてはまさにそれがしっくりくる事例だった。

単純にこの作品のあらすじを紹介してしまうと「貧しい農家出身の男性が大学で文学の魅力に触れ、その後の一生をその研究に捧げる話」なのだが、多くの読み手に支持されているのはそのストーリーラインではないのだと思う。読み手がどう考えるかはさまざまだと思うけど、自分の場合は主人公が経験する一瞬ごとの心の機微の表現がすばらしいと思った。物語のストーリーラインという全体的・大局的な視点ではない、もっと細切れで刹那的な、繊細な出来事の取り上げ方というか。

もちろん他の小説でもそう感じることは多々あるけれど、この作品は最初から最後まで、そういう一瞬一瞬が積み重なってできているように思う。こういう良さがあるんだなぁとしみじみする本だった。

この前、神田古本市で同じ作家の別の本を入手したのでそのうち読みたい。

すべては読書から、言葉からはじまる

長田弘さんの書いたものを読むのは初めてだったけど、言葉というものに対してとてもストイックな考え方をする人だったんだな、と「読書からはじまる」を読み終えて思った。

物を書く人である以上、普通よりも遣う言葉に気を配るのは当たり前としても、その関心は単に「文章を書く/読む」という状態を超えて、人間にとっての言葉とは何か、の探究にまで至っているように見える。

言葉というのは、とどのつまりその人の生き方の流儀であり、マナーです。言葉をゆたかにするというのは、自分の言葉をちゃんともつことができるようになることです。

正直こんなにずっしりした内容だと思っていなかったので(軽くみてたというより心の準備ができてなかった)、読み下すのに時間が必要だったけど、少しずつ慣らしながら読んでいった先のとくに最後のほうの文章が印象に残った。

そこに伝えられないものがある。言い表せないものがある。はっきりと感じられているけれども、どうしても言葉にならないもの、言葉にできないままになってしまうものがある。何かとしか言えないような何かがある。言葉から、あるいは言葉によって、そうした沈黙、そうした無言、そうした空白というものをみずからすすんで受けとることのできるような機会をつくるような、そういったコミュニケーションのあり方を大事にしてゆくことを考えたいと思うのです。 
そうした沈黙、そうした無言、そうした空白が体しているものが、それぞれに心のなかにもっている問題なのであり、なくしてはならない記憶の確かな目安だからです。

ここまで丁寧に丹精につづられた文章でもまだ到達し得ない場所がある。それは作者によって隠されているわけではなく、作者自身も言葉にしきれない何かがある、というふうに理解をしている。

いい本だった。

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