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『ノモレ』に感じるイタコ文学のニューウェーブ

フィクションとノンフィクションの“あわい”はどこにあろうのだろうか。そのあわいは、嘘と誠をかぎるものではない。それは何が真実かという問いそのものであり、そのあわいにこそイタコ文学は揺曳する。

2018年6月、イタコ文学の新たな傑作『ノモレ』が上梓された。イタコ文学は決して有り触れていない。というより、イタコ文学の金字塔である一つの作品のことしか、私は今思い出すことができない。今年の2月に亡くなった石牟礼道子の『苦海浄土』だ。
(なお、イタコ文学という耳遠い言葉は『苦海浄土』の解説で渡辺京二さんが巷にあると語っていた「石牟礼道子巫女説」から着想を得た私の造語である。)

下部よりわき上がるイタコの言葉

寡作であったとはいえ、石牟礼の作品の知名度は『苦海浄土』が頭一つ以上抜けている。にも関わらず、いまだに『苦海浄土』がノンフィクションだと誤解しているものは多い。確かに『苦海浄土』は熊本県の水俣で起きた公害、水俣病についての文学であり、被害者家族への取材もしていれば裁判やチッソ前での抗議活動にも与しているし、なにより水俣は真実に彼女の故郷であった。それでもフィクションなのだ。証左となるかはわからないが、大宅壮一ノンフィクション賞を石牟礼は辞退している。

石牟礼は真実を忌避したわけではない。むしろ真実に没頭した結果、苦海浄土はフィクションとなる。ある種の実存的な感覚は、時に視覚や聴覚を越えた、声にならない声で真実を語る。地霊の語りが始まるとき、彼女は知覚したままに人々や人々に纏わる風景を描く。まるでイタコが見えざる真実をありありと憑空するように。それは私たちが真実だと思う、あるいは真実だと仮定した何らかのイメージに対して言寄せていくという通常の文学のメソドロジーとは異なる。イタコが聞いた言葉のように、天から、あるいは海の底からわき上がってくる言葉を、彼女は巧みに捕まえている。

イタコは悲劇を望まない

石牟礼の死と同年、北条裕子さんの『美しい顔』という作品が群像新人賞を受賞する。彼女は東日本大震災をテーマにこの作品を著した。それも一度も被災地を訪れることなく。そのあまりにも大胆な文学的暴挙に、私は新たなイタコ文学の誕生を期待したが、『美しい顔』は私の望んだような作品ではなかった。彼女は現地を訪れていないかわりに、とてもよく調査してこの小説を著した。彼女の想像力は決して貧しくない。しかし個人の力には当然限界があり、イタコ文学には外部の神がかった何かの力が必要不可欠だ。彼女は自身の想像が虚実となることを恐れ、震災について書かれたノンフィクションから被災者の言葉の背骨を借り受ける。それはある種の誠実さからの行動だと私は思うが、一方で剽窃とみなすのも無理はなく、芥川賞の候補にまでなった作品に泥を塗る結果となってしまった。インターネットや書物からだけでは、地霊の声を聞くには不十分ということかもしれない。

彼女に一切の罪がないとは言いがたいし、彼女自身それは自覚している。悪ふざけで書かれた作品でないことは、少なくともこの小説の読者の多くには伝わっているだろう。しかし彼女は多分に罪の意識を感じながらもこの小説を書き上げた。それは天災や人災が小説にとっての沃土であることと無関係ではあるまい。罪だとわかっていながらあえて行った蛮行を、他者が“果敢”とか“挑戦”と褒めそやすことに私は飽き飽きしている。彼女の罪は現地に行かなかったことでも剽窃でもなく、震災を“有り難く”利用してしまったことではないだろうか。(皮肉にも著者自身の“美しい顔”もまた批評家や読者の目や頭を曇らせ、その罪を重くしたように思う。)そしてその罪は今までも多くの芸術家たちが犯してきたものと同じだ。しかし石牟礼の場合はどこか違う。石牟礼は自身の希有な才能が顕彰された今の世界の何倍も、水俣病のなかった水俣を望んだに違いない。

文体は地霊の声に染まる

先日、国分拓さんの著作『ノモレ』を読了した。前著の『ヤノマミ』は彼がアマゾンの先住民ヤノマミと暮らした日々を描いたノンフィクションで、彼らに対し近さと遠さを同時に感じさせる素晴らしい作品であった。(いみじくも大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している。)その国分さんの新作が上梓され、しかも内容はアマゾンの奥地にいた新たな民族との邂逅と聞けば、自然に似たような作品を期待するのが人心だろう。しかしそれは良い意味で裏切られた。

『ヤノマミ』の中で著者は、アマゾンでは都会を舞台にした推理小説が頭に入ってこない、と語り、その後このように述懐している。

一方で、ガルシア・マルケスやリチャード・ブローティガンの非現実的で不思議な物語はするすると頭の中に入ってきた。ガルシア・マルケスの『百年の孤独』は三回目の通読だったのだが、以前読んだ時以上に夢中になった。その世界観はより濃密かつ豊穣に、余韻はさらに深く、そして何よりも、小説なのに不思議なリアリティを感じるようになった。

『ヤノマミ』を記したときにはすでに著者は南米の地霊を発見し、幾らか懇意になってはいたものの、彼の視座は外からきた観察者のままだ。それは当然のことだし、ノンフィクションにおいてその距離感もまた必要なものである。

一方で近著『ノモレ』ではどうだろうか。彼の文体はすっかり南米の地霊の声に染まり、“不思議なリアリティ”を得ていた。それはまるで彼が何度も通読したガルシア・マルケスのような湿度と地脈(血脈)を感じさせる筆致だった。

聞こえた声と聞こえたかった声、そして祈り

『ノモレ』のあらすじはこうだ。ペルー政府は新たに現れたアマゾンの民族イゾラド(民族の名前ではなく文明と未接触の民族の意)への対応に苦慮していた。村や家畜が襲われ、死人までも出ていた。そこで彼らと恐らく同語族の元イゾラドのイネ人で、今は文明側にも寄り添った考えを持つ若き村長ロメウに彼らとの交渉役を依頼する。

文明側はイゾラドのことを凶暴で野蛮な人間という意味の「マシュコ・ピーロ」という呼称で呼ぶ。それは「バルバロイ」とか「南蛮人」と言う言葉がかつて使われたことと同様に、知らないものへの恐怖と虚栄心が透けている。しかし、ロメウは彼らが「ノモレ」(仲間)だと信じていた。彼の村の長老が彼らをかつて森で生き別れた同胞の子孫だと考えていたからだ。

ロメウが一角の男であることは間違いない。時に彼は政府の方針に逆らってまで、河の対岸に現れたイゾラドを、「ノモレ」として扱う。ロメウが川を渡り接触したイゾラドの家族の父クッカも、そんな彼に幾らか心を許していたように思える。しかし、作品である方の『ノモレ』の中にはロメウやクッカの一人称による語りが存在する。多少のインタビューは行ったというロメウはともかく、クッカの内心を聞くすべはない。おそらく著者は耳をそばだて、少しでも多くの声を聞こうとするあまり、聞こえて欲しかった声までも聞いてしまったのではないか。恐ろしく鋭敏な感覚で自然に地の底の声を聞いた石牟礼とは異なるものの、向こう側の声に耳をすまし、微かに聞こえた気がした声を記した国分さんもまた、イタコ文学、あるいはポスト・イタコ文学の書き手なのではないだろうか。もしかするとそれは幻聴かも知れない。しかし、彼の筆致には石牟礼と同様“祈り”がある。真に彼らが「ノモレ」であれ、という祈りだ。『ノモレ』が新潮ノンフィクション賞を逃したことさえ、『ノモレ』がイタコ文学であるという信憑性を高めているように思えた。

前述の通り、イタコ文学はノンフィクションとは言い難い。しかしそうでないことが作品の価値を毀損することにはならないし、芥川賞でも何でも受賞できるだけの価値が『ノモレ』という作品には確かにある。イタコ文学に備わる文学の価値を問い直す潜勢力が文壇を席巻する日を待ち望んでいる。


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