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田舎暮らしの「豊かさ」の答え

「都会はお金で時間を買って生活を省略してしまっている。自然の近くで、省略した部分を自分たちでやってみるような生活をしたい。それが『豊かな暮らし』ではないか?

そんな仮説をもってやってきて、群馬県の最北みなかみ町に引っ越して1年半がたった。
まだ短い間だけれどたくさんの体験をしてきて、この問いに立ち返ってみた。

それって本当に豊かな暮らし?
結論は、現時点でも声を大にして言える。豊かな暮らしだなと。

もちろんどう感じるかは人それぞれだが、私の今の価値観からは、ハッキリとそれを感じることができた。

生活の省略を見直していくと何が起きるのか?

人生の中で当たり前に在ったすべてのものを見直すキッカケがある

一言で言うならこれに尽きる。
仮説を考えてた頃からそんなに離れたような結論ではないが、頭で考えるのと経験するのとではやっぱり全然違うということで、象徴するエピソードを2つほど紹介する。

1.豆腐革命 - 慣れ親しんだ「食」の見直し

豆腐、は、お好きだろうか?
まぁ‥というくらいの人が多いかもしれないが、私はかなり好きだ。大豆製品が好きすぎて、豆腐に卯の花(おから)と納豆をかけたものと飲み物は豆乳という大豆パラダイスで1食なんて日常だった。
スーパーで買うあの豆腐。四角くて、絹ならツルっと、木綿ならざらっとなあの豆腐。

アレを作ろうと思ったことがあるだろうか?

えっと、あれでしょ、大豆を煮て?、「にがり」を入れるんだよね? で、おからが出て、豆腐が本体なんでしょ? 豆腐屋さんって朝4時から毎日仕込むイメージ。大変そう。

まぁ普通作ろうなんて思わない。大変そうだし、スーパーで50円くらいで買えちゃうもん。

田舎ではよく味噌作りをしている。
「手前味噌」って言葉があるくらい、みんな自宅で味噌をつくってたから継承してイベントにしていたりする。

そのついでに、つくってくれたのだ、「豆腐」を。

そしてその工程は、確かに時間はかかるが想像よりもはるかに簡単だった。

1.乾燥大豆を水に一晩つける
2.大豆をミキサーで砕く
3.鍋に水を沸かして砕いた大豆をいれて、20分くらい煮る
4.さらし(布)で濾す。→ カスの方が「おから」。液体の方が「豆乳」。
5.豆乳を80℃まで温めたら、火からおろして「にがり」を入れる
6.チーズみたいに分離するので再びさらしで濾すと「豆腐」になる!

手作り豆腐

ちょっと工程が多くみえるかもしれないけど、要は水につけた大豆を砕いて水で煮ると豆乳ができて、豆乳に「にがり」を入れるだけ。なんだよね。

で、何が面白いかというと、まずはその衝撃の味!!!

え、、え?? 豆腐? トーフ? これがとうふ????

って思うくらい、別物だった。
しっかり固めなかったのでおぼろ豆腐のような感じだったのだが、とてもクリーミーでなめらかで濃厚だった。大豆ミートとか大豆のポテンシャルは以前から言われてるけど、疑似食品にしなくたって十分に大豆はヤバウマだったのだ。

こんなものが家庭で生み出せるなら、料理が好きな人なら多少時間かけてもやりたい人は多いんじゃないかな。まじで知らなかった。

そして、豆腐をつくる過程で発生する「おから」と「豆乳」。
これらも全部、私の知っている食べ物ではなかった。

サラダにしてもらったおからは冗談抜きでナッツじゃないかってくらいリッチな食感と味。ホット豆乳はこの世の優しさを全て詰め込んだような飲み物だった。
※ちなみにミキサーで砕くときに粗く砕くとおからがリッチになり、細かく砕くと豆乳が濃くなるらしい

ちょっと表現のテンションが上がりすぎているのも否めないが、それくらい感動してしまう差分だったのである。

‥さて、なぜこの豆腐革命が象徴的な例なのかというと、とても慣れ親しんだ食品だったからだ。

じつはこれの前から燻製ベーコン作りを手伝わせてもらってその味に声がでないほど感動したり、見たことも聞いたこともない山菜をタダでとらせてもらってそのおいしさに感動したりと、これはこれで田舎でしか感じられない私の"食の革命運動"ではあった。

のだが、豆腐のように日常的に食べていたものの本当の姿を見せてもらうような体験は衝撃的だった。当たり前のようにスーパーで買って食べているものって一体何なのか?今まで生きてきた30年間スーパーの食品だけでつくってきた料理って、実はすごく狭いステージの上での出来事だったんじゃないか? 豆腐に限らないが、そんなことを日常的に考えさせられるような出来事だったのだ。こんなふうに世界が広がる感覚を持てるなんて、思いもよらなかった。

豆腐よ、君のそんな素敵な姿を見ないまま一生を終えなくてよかったよ。

2.命ある資材 - 人間中心思考から、生物中心思考に近づく

今、Macを置いているカウンターテーブルは、アイアンの足に、綺麗なヒノキの天板が置かれている。

この天板、当然ではあるが急に割れたり伸びたり縮んだりして壊れたりはしない。長ーく使えばわからないが、基本的にはそうならないように加工されていたり、そうならない扱いやすい木材を選んで使っていたりする。

そんなことはまだツユほども知らなかった頃、以前から参加している自伐型林業チームで間伐した生木を何か使いたいな〜と思い、チェーンソーで丸太を輪切りにして「カワイイ!」と言って持ち帰り、お皿にしようかなーなどと考えていた。

1週間ほどたったある日、
パキッッッ
と、建物に響きわたるほどの音が鳴った。

仲間から警告されてはいたが、真ん中までしっかりと大きくヒビ割れが入っていた。乾燥技術をロクに学ばず生木を扱うと、こういうことになるんだな‥と。均一に乾燥できずに割れてしまうそうだ。

写真はさらに時間がたってからのもの

同時に、木材といえば出来上がった製品か、かろうじてホームセンターで均一の大きさにに並べられた材しか見る機会がなかった私は『資材が元は生きた木である』という、当たり前の事実を目の当たりにする感覚があった。切られる前は身体に水を巡らせ、綺麗な年輪を重ねて大きくなっていく生命だという当たり前の事実に。

「扱いやすい木材」なんてのは、人間側の都合だ。
『木材』という言葉を使う時点で資材なんだから「人間の都合のいい道具」になるのは当たり前じゃない?という感覚を今までなら疑わなかったというか、あんまり深く考えてこなかった。
食べ物もそうだが、元は生きた命であるということ、その恩恵を授かっているという感覚が、都会にいると全くと言っていいほど感じられない。

田舎にいたとしても関わる人によっては全く考えなかったりするとは思うが、私は運良く、自伐型林業チームに参加したり、とことん森の視点に立って考えている人たちと出会い、たくさん話を聞く機会があった。

例えば、一部の広葉樹の無垢材(丸太から切り出してそのまま使う材)は木目がすごく素敵だけれど、反ったり割れたりといわゆる"あばれる性質"があるので、扱うには手間や技術がいるし、使う先での理解も必要だそうだ。
そうなると、手間や技術を投げ出して扱いやすい材だけを使ったり、合板を使ったほうがはるかに手間がかからず効率もいいし、トラブルも起きにくい。

そうやって周りが諦めていくと、その木は扱われないままである。

それを諦めず、利益を度外視したとしても、技術をしっかり継承して扱っていきたいと言い続けているのが、みなかみで出会ったsumikaの人たちだ。

先程の広葉樹のように扱いづらい木をどうにか活用したり、制作過程ででる端材やおがくずといった、捨てられてしまいがちな材の活用アイディアをたくさん出しては、多くのものを実現してきている。

彼らは、いつも森の視点に立ち、経済の中にいる。
人間中心の経済の中においてはある種異質だが、その信念はとても魅力的にうつる。そして経済の中では軽視されてきたその技術や信念はとても大きな価値があり、豊かさと強く通じるように私には思える。

現代では普通、つくってもらったテーブルの天板が"あばれる"ことはない。あばれたらクレームものだろう。でも、こういった文脈の中での多少の"あばれる"ことは命を感じる体験ともいえる。仮にもし、昔は無垢材が多少あばれるのは普通だという共通認識だとしたら、そんなに神経質になっただろうか?
木があばれるって表現が動物みたいだなって思うけれど、しつけをしても言うことをなかなか聞かない手間のかかる愛らしいペットを飼っているようなものかもしれない。 生物のゆらぎを許容できなくなってしまったのは、現代技術の中だけの当たり前、という可能性もある。

当たり前に存在していた、自分の住む家や家具の資材がどのように選ばれ、どのように扱われ、どのように作られたかなんて考えたことがなかったのだが、それを改めて考えたいと強く思うようになった。一般市場にでているものだけでは見えないものがたくさんある。
これから家を建てたいという人は、使う資材には命があるということ、森があるということ、選択肢があるということを知ってほしいとも思う。

IT業界にどっぷりだった自分には、そんな発想すらなかった。
コンピュータのセカイは人間が人間のためにつくったセカイであり、経済も技術もやっぱり基本的には人間に向いていたからだ。人間の豊かさも、人間が全部つくれると思っていた。
なんなら自然だって、人間の豊かさのための存在と思っていたかもしれない。「自然と共生することが大事だ!」なんて言いつつ、ベクトルが自分だけに向いていたと思う。(自分に利益があるのが悪いんじゃなくて、ベクトルが双方向に向くと良いと思う)

何にしても、まずは知ることから始まる。
みなかみに来なければ、林業を始めて森の中に入っていかなければ、sumikaさんの話を聞かなければ、スタートラインに立つことすらできなかった。
知って、行動して、少しずつ森の視点を学んでいきたい。

彼らの生き様、姿勢、思考、行動から本当の意味での共生を学ばせてもらっている。我が子のように人生の中心を森に分け置くような生き方にはとても影響を受けており、私の仮説検証の回答の多くは、彼らが持っているように思う。

当たり前を見直した結果・・

当たり前に在るものを見直すと何が嬉しいのか?

大きいのは、衝撃と同時にバーンと視野が広がる感覚がある。
それは自分の既存のフレーム(常識や価値観)を一度ぶっ壊し、再構築することだと思っているのだが、みなかみにきてからそんなことばかりだ。壊されるものによっては多少落ち込むのだが、再構築するものは今の自分にとってはとても本質に近いことのように感じられている。

ぶっ壊されるほど大きな衝撃じゃなくても、古い習慣や行動・道具がものすごく自分にとっては新しい新鮮なものにうつるときがある。海外で面白いカルチャーに触れたときや、昔Appleが新製品を出して初めて触るときのようなワクワクを覚えたりして、これも視野が広がるということだと思う。

「豊かな状態」が、満ち足りている・幸福な状態であるとするならば、今の自分にとっての豊かさは何かというアンテナを常にはりながら、そのアンテナをコンパスにして視野を広げたり深めていくプロセス自体がまた、豊かな状態ということではないだろうか。

20代前半のバリバリ働きたくて仕方なかった自分が田舎暮らしをしても、おそらく今の自分ほど視野が広がる感覚はなかったかもしれない。アンテナが全く向いていないからだ。

ただ多くの現代人にとって、生活を省略せず自分で何かをつくってみようと思ったり、つくっている人たちから話を聞くことは、多くの発見があると思う。数日だけの観光や体験旅行だけではこれを感じるのは難しいかもしれない。私も1年半住んで、コーチングも駆使して、ようやく少しずつわかってきた。

田舎暮らしの価値は、人との出会いで決まる

私はたいして考えずにみなかみ町に飛び込ませてもらったけれど、とてもラッキーなケースだったと思う。周囲の人たちにとても恵まれているからだ。田舎暮らし1/1データしかないのだが、群馬県利根郡みなかみ町は本当に素敵な人達が集まっている。

地元/移住者に関わらず若い人たちが活動的であるということ
移住窓口のお二人が、移住前だけでなく移住後も面倒をみてくれたこと
移住者コミュニティがあり、単身でも孤独感が薄かったこと
移住直後にゲストハウスの立ち上げに誘ってもらえたこと
ゲストハウス&コワーキングほとりから、人の繋がりが一気に広がったこと
Giveの精神・応援マインドのある人が多いこと
それぞれの信念のもと、深く考える人たちと出会えたこと

田舎暮らしを楽しむには、かなりの主体性を求められる。
基本的にみんな勝手に始めて勝手に楽しんでいるからだ。やりたいことがあれば応援してくれるが、基本的には自分でやらないと何も進まない。(もちろん雇われるという手もあるが、その選択も自分の暮らしを設計して主体的にした方がいいと思う)

自分がアンテナをはっていれば、地域コミュニティの繋がりは強いのである程度は出会いたい人に出会いやすくはなると思うが、それでも偶発的な要素は大きい。
いわゆる「ハズレ」的な話は聞いた話や本で読んだ話でしかないが、住んでみるまで自分と合うかわからない「地域性ガチャ」「人ガチャ」は本当にあるのではと思う。。そういう意味で私はかなりラッキーだった。

元々シェアビレッジをつくって豊かさの実験をしたい!という構想をもってこちらにきた。(現在良い土地が見つかり、購入準備中)

①豊かさの実験をする →
②自分が豊かさを感じられたら →
③豊かさをたくさんの人に伝えていきたい →
①実験… ループ

というシンプルなフローを携えていたのだけれど、②の自分にとっての豊かさがわかるようになってきた今、これをやる意義もより強く感じられている。私にとっての豊かさを言葉や場で伝えることで、豊かさとは何かを考えるきっかけになればと思うし、人との出会いの精度を高められるようなハシゴのような役割になったらいいと思う。そういった場面では、ITの力も存分に駆使ししていきたい。

私がラッキーだったと思えたように、「たみーがいてラッキーだったな〜」と思ってもらえるような居場所づくりをしていきたい。
豊かさの追求の先には、そんなことが自分の役割だと感じている。

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