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ディズニーランドのディズニー以外の部分──または捨て台詞としての『ウィッシュ』

「ディズニーランドが好きです。ディズニーオタクです」

私がそう自己紹介すると、周囲の人が薄ら笑いを浮かべる。
東京で見かけるすべての(?)女子高生が、ディズニーパークで購入した何某かのグッズを身につけている時代。彼女らはとやかくディズニーランドが好きだと公言したりはしない(公表するまでもなく好きなのだろう)。
一方、ディズニーランドを出汁に自分のことを覚えてもらおうと必死な目の前のくたびれた人間を見ても、カバンにも服装にも、ディズニーの影はない。

私は、ディズニーランドのディズニーではない部分が好きだ。
ディズニーが手がけるストーリー、ストーリーテリングの手法や、その熱意が好きだ。そして、物語にあふれた現代社会に対してディズニーランドが与えた影響は、とても大きなものだと思っている。

しかし──だからこそ──私は困っている。嗚呼、哀しき哉、2年前と同じ悩みである。私はこの2年間で、木のまわりをぐるりと一周して、元いた位置に戻ってきてしまった。

「ディズニーファンであるって、なんだろう?」

2年前の記事はこちら(社会の厳しさを微塵も知らないガキの頃の話です


広く浅く

私がツイッター(現X)をやっていたころ共にアカウントを成長させていったディズニーオタク仲間たちが、次々とコミックマーケットで同人誌を頒布する。刷って刷って刷って……大いなる目標のためなら刷りまくりだ。
ある人はディズニーパークを効率的にまわるための完全攻略本を、別の人は東京ディズニーランドのすべてのアトラクションの歴史を全編書き下ろしで網羅した図鑑のような本を出すらしい。すごい。すばらしい。

だが……すばらしすぎる。界隈に解き放たれるこれらの輝かしい新作は、私がいかに無力であるかを教えてくれる。
彼らは一つ(や二つ)の分野に絞って、狭く深く掘り下げていくから、いつか石油を掘り当てるだろう。ここでいう石油とは必ずしも金銭やフォロワーではない。むしろ、カタルシスやスペシャリティとでもいうべきものである。
他方で私はどうだ。東京ディズニーシーのエリア「ミステリアスアイランド」について扱った冊子、ディズニーアンバサダーホテルにまつわる一冊、そのほかにも企画はいくらでも思いつくが、それはせいぜい二、三冊の文献の寄せ集めでしかない。それならば、その二、三冊をこのnoteで紹介するから各自読んでほしいと思う。広く浅く……その結果として、私は何も掘り当てられなかった。

例えば先日、ゆる学徒カフェにてラジオを収録した。YouTubeにその様子がアップロードされている。

この動画自体は聴き手を快く引き受けてくださった黒川店長のおかげでとてもにぎやかなものになったのだが……一方、反省点は多々あった。尺の調整がうまくいっていなかったり、引き出しが少なかったり、かと思えば黒川店長の話をうまく拾えていなかったり。
それはひとえに、私の勉強不足の結果に他ならない。

昔、父に言われたことがある。
「俺は広く浅くだけど、お前は狭く深くだな」
全くそんなことはなかった。俺もまた、広く浅くだ。

もちろん、ここでは一般的に言われるような「広く浅く」を批判したいわけではない。狭く深く掘れば石油が見つかるかもしれないが、広く浅く進めば遠くへ行ける。いいじゃないか、遠くへ行けるのなら。
しかし──私の言う「広く浅く」は、そういったいい意味での「広く浅く」ではない。飽きがきたから匙を投げてきたというだけである。私は以前からずっとそうだ。

2年前にも同じような悩みがあった。「ディズニーファンであるってどんなことだろうか?」ということだ。2年前の悩みの正体は、「ディズニーに自身のアイデンティティを支配されるのではないか」という具体性の呪縛であった。
ところが今回は違うらしい、私は抽象的になりすぎた。ディズニーファンたる私が何者なのか、具体的に何もわからない。一体どうなって、こんなことになってしまったのか?

Because in Disney……

その答えは明確である。“Because in Disney……"という考え方が、この2年間の私の消費全体を支配してきたからである。つまり、私の選択はディズニーの選択なのである。

聴く音楽や観る映画、普段の衣服や好きなデザインは、すべて全く同じ一つの理由で選んでいる。「ディズニーランドにこういう場所があってね……」から始まって「……だから、その再現なんだ」で終わる理由である。
このことは言い換えれば、浪費した時間の割に、積み重ねが何もないということである。

また、こういった理由で安易に趣味の手を広げ続けることは、「時間の無駄」以上の禍根を残す。
それは、「私は本当にそれ・・が好きなのか?」ということである。

確かに私はそれが好きだ。ミステリアスアイランドやワールドバザールのようなヴィクトリア朝様式の雰囲気も、ディズニーアンバサダーホテルやロストリバーデルタのような、1930年代の旅行文化も。ジャズやラグタイムやアール・デコといったアートが好きだ。だが、それらをディズニーテーマパークと切り離して考えることは、現状できてはいない。
つまり、専門分野に踏み込むことができていないのである。私は1930年代から50年代の衣服に関心がある。ただそれは、ディズニーリゾートを訪れる際に着たい衣服を私服に落とし込んでいるだけで、実際に当時について書いた書籍や資料を見ているわけではない。当時を描いた映画を見たことはあるが、それらを研究しているわけではない。実際に、日常的に着回すためのアプローチや、そのアプローチを作るための基本のキができているわけでもない。

私は本当にそれ・・が好きなのだろうか?
それとも、ただ砂場で遊んでいるだけに過ぎないのだろうか?
それは、真摯な態度と言えるのだろうか?

ネガティブ応援歌としての『ウィッシュ』

……ということを考えていた折、ディズニースタジオ100周年を記念して製作された映画『ウィッシュ』が公開された。
折角なので観に行ってみると、この映画がま〜〜〜〜〜〜〜〜〜あ微妙だった。本当に微妙。様々な形容詞(という名の悪口)が思いつく作品だ。
しかし、この映画との出会いが、先に述べた問題を解決することにつながったのである。

『ウィッシュ』の内容は、全ディズニー映画の平均を取ったようなものである。すべてのディズニー映画に共通する部分を抜き出してきた、言わば壁のない柱と梁だけの家だ。建物として数えてもいいかもしれないが、嬉しいほどに住みにくいのである。
キャラクターにもおもしろみや厚みがない。興味深く、ファンミームに昇華されたおもしろみがあるのはヴィランのマグニフィコ王であろうが、それ以外にはなんの創意工夫もない。
音楽は素敵で、何曲か口ずさみたくなるものもあったが、アニメーションがそれに追いついていない。MVとしてなんの面白みもない。ストーリーに賛否のある『ミラベルと魔法だらけの家』ですら、圧倒的に美麗なアニメーションと練られた構図、目まぐるしい展開に魅力が感じられた。
安易なディズニー映画のオマージュは表面的で、見ていて恥ずかしい気持ちになる。楽しいし感動もするが、それ以上のものは得られない。日本の広告では「世紀のドラマティック・ミュージカル」を謳っている『ウィッシュ』だが、実際は「史上最高のスタッフが贈る、ディズニー映画の二次創作」という感じだ。

だが……冷静に考えると、これは至極当たり前のことである。ディズニー映画のファンにとって、こうした結末はある程度“想定内”だったと言ってよい。
というのも、ご存知の方も多いように、ウォルト・ディズニー生誕100周年を祝う映画『アトランティス:失われた帝国』もまた、めちゃくちゃつまらない映画であったからだ。アニバーサリーの期待がかかる映画は、だいたい無難で「つまらないと言うには勿体無いが、強いて評価するならつまらない」という代物になる。それは仕方のないことで、ディズニー映画以外にもそうである。『名探偵コナン 11人目のストライカー』は、小学館創業90周年とJリーグ20周年を二重に背負った結果、コナン映画全体の中ではかなり評価が低い位置付けになった。
この映画(「アトランティス」)がつまらない理由はそれだけではない。1990年代、『美女と野獣』や『アラジン』といった地域色の強い映画を成功させたディズニーはだんだんと独自路線を志向し始め、『ムーラン』や『ターザン』などの映画では思うように興行的成功を達成できなくなっていた。2001年公開の映画『アトランティス:失われた帝国』が大失敗と言われるのも、この時代の流れの上にある。

さらに時代を遡れば、ディズニー映画がもっとつまらなかった時期もある。ウォルト・ディズニーが死去した1966年から『リトル・マーメイド』が公開される1989年までの23年間である。どれも「おもしろいところもあるが、低予算で投げやりでゴールが見えない作品」というイメージだ。
もちろん、この時代の作品が好きな人のことを否定するつもりは全くない。『ビアンカの大冒険』の美しいオープニング、『オリビアちゃんの大冒険』に登場するラティガン教授のおそろしい振る舞いなど、私の好きな部分もたくさんある。しかし、ウォルトが「これを創りたい!」と熱量で運営してきたスタジオがもぬけの殻になり、「ウォルトならどうするか?」と自問自答しながら彷徨う期間に製作された映画であることは事実であろう。

さて、話は戻るが……2023年の『ウィッシュ』をあたかも「ディズニー社の終焉」であるかのように大袈裟に語る動画のなんと多いことか!
ディズニー社のアニメーションは、100年間成功し続けてきたわけではない。失敗の歴史でもある。
『ウィッシュ』の裏で起きていた、ディズニー社社長による大規模リストラも話題だった。これが、『ウィッシュ』のアニメーションが貧困だった理由の一つと言われている。しかし、ピクサー映画『トイ・ストーリー』を手がけ、2010年代に束の間の黄金期を築いたジョン・ラセターも、『Mr.インクレディブル」シリーズのブラッド・バード監督も、1960〜70年代のディズニー社に失望して一度退社しているのだ。ディズニー社は既に、優秀なアニメーターの退社という問題に何度も向き合ってきた会社である。

『ウィッシュ』がいくらつまらないからといって、それが即座に「ディズニー社の終わり」であるわけがない。
どうせ、10年か20年つまらない映画を作りつづけるだろう。しかし、このままではまずいといって他社の偉い人が改革に入り、そのうちまた見事な作品を作り始めるだろう。
それがディズニーアニメーション100年の積み重ねというものではなかろうか?

捨て台詞としての『ウィッシュ』

……ということであるので、それは私にも都合がいいのではないかと思った。
つまり、常にディズニーに執着している必要はない。時間が解決してくれることもあるのである。

ディズニーのことを一旦忘れ、それ以外の分野についてきちんと勉強する時間を設けてみよう。バーバーショップカルテットを聴き、1930年代のカタログに目を通してみよう。いろいろな映画を観てみよう。

人間の最終的な目的は幸せに生きることであり、ディズニー作品はその手段にすぎない。シャキッとした判断で関心分野を絞り、分割統治していくことが肝要である。


ということで、これが2023年最後の記事になります。
2023年は、TamifuruDの中でも方針が変わり、これまでの発信活動をバッサリやめたり反対に新しいことを始めたりと、個人的にとても重要な1年となりました。

大型記事として「イクスピアリおたのしみマニュアル」および「ここがへんだよディズニーシー」を執筆し、たくさんの方に届けられたことは、2023年のとても嬉しかったことです。記事をご覧くださったすべての方に感謝申し上げます。今後も、東京ディズニーリゾートに横たわる大きな・・・物語の世界へと、読者の皆様と一緒に出かけて行ければと思います。
また、昨年末より連載を本格的に開始し始めた「ディズニーシーロゴ標本」をはじめとして紹介し続けてきた小さな・・・物語も、ストックがある限り折を見て記録し続けようと思います。
1年の終わりには「なぜあなたの友人はディズニーにハマるのか」を作成、ゆる学徒カフェでのラジオ収録を行いました。こちらも、ご覧くださった方、記事をお読みくださった方、有難うございます! ディズニーファンとしてのアウトリーチ活動は、今後も(身を弁えつつ)ひっそりと続けていきます。

そして何より、『「趣味」とは「地図」であるというお話─三井ガーデンホテルズを巡って』を皮切りに、『ディズニーランドが勝つ理由、負ける理由─西武園とハワイアンズを旅して気がついたこと』等を通じて、ディズニーテーマパークの外の世界もまた見てきました。
この記事にあるとおり……2024年は「ディズニーから始めよ」の考え方を捨て、「まずは世界を見よ」の年にしたいと考えています。The Ruminators' Salonは今後も、世界のすばらしい文化と歴史、築き上げられてきたありとあらゆる学問を信じ、その魅力を読者の皆様にお伝えすることができれば幸いです。
その結果として、ディズニーコンテンツのおもしろさや素晴らしさのみならず、より多様な物語の世界を発見できれば──それらを読者の皆様と共有することができれば、これ以上に嬉しいことはありません。
この1年間The Ruminators' Salonをご贔屓くださったことに、心から感謝いたします。来年もまた、よろしくお願いいたします!

31st Dec 2023
記事を書いている間にお風呂が沸いたが一向に入らず、同居人に微妙な顔をされながら

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