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幸せのハードル

あけましておめでとうございます。

ぐうたらしてても、せっせと働いても、毎年同じように新年は明け、誕生日も来る。それでも「節目」を意識してその日を迎えることで、何か「いいこと」があるのなら幸せなこと、めでたいことかと思います。

毎年「良い年になりますように」と祈って始まる年月を重ねれば、年をとるほど人は幸せになっても良さそうなものなのに、そういうわけでもなさそう。

年明け早々に震災に遭われた方たちのことを思うと胸が痛みます。せめて避難所で安心して過ごせるように、政府には防衛ではなく防災に予算を割いてもらいたい。快適で安全なねぐらは権利です。被災者の人権を守るのは国の仕事。日本も世界人権規約に批准している(一部を除き)国なのだから、人権と尊厳が守られるように避難所を快適・安全なものにする義務があります。以下参照。

元旦には地震、昨日は航空機の炎上…何やら不穏なことが連続で起きる正月ですが、半径5メートルは平穏に過ごしておられるのかと思います。平穏かつ幸せに。


「母のこと」に書いたように、わたしの幼少期は決して幸せいっぱいとは言えないものでしたが、そのおかげとも言える「いいこと」がいくつかあったことを書き留めておきます。

わたしはどうやら人並みの視力が元々無かったようで、遠くの景色、指を指された先のもののことに言及して「バカにされる」子どもだった。「何言うてんの?」「アホか…」と。就学時健康診断の視力検査でいつものようにとんちんかんなわたしを母は「この子は緊張するとアホなこと言うんです」と言い、視力の異常は見つからなかった。背の低いわたしは教室の1番前の席だったので、1年生向けの大きな文字の板書が見えなくて困ることは無く、2年生の視力検査のときにようやく「人並みに見えていない」ことが判明した。

その時わたしが感じたのは「バカだからじゃなかった」という安堵感。

眼鏡をかけるようになって周囲の大人は「かわいそう」だとあわれみ、学校のワルガキどもは「メガネザル」とはやし立てた。それらが嫌だという気持ちをはるかに凌ぐ勢いで、わたしは突然クリアになった視界を楽しんだ。足元の段差がはっきり見える、絨毯の繊維や畳の目がはっきり見える、星がいっぱいある、木々が風に葉っぱをそよがせるのが見える、しゃがみこまなくてもありんこが見える。

そもそものスタートラインに自分が着いていなかったことは、小さな子どもには認識できない。標準という客観的指標は大人のものであって、子どもにとってはその子がその子の五感で感じる世界がデフォルトなのだ。それ以外の世界があることを成長するにしたがって、周囲の多様な人との交流で認識するようになり、何が標準なのか追々わかるようになる。

それが自然な順序だと思うのだけれど、なまじ標準の範囲内だったり標準より優れていると、大人の振る舞いから「自分は普通(優秀)」と認識して、大人の振る舞いを真似るように普通(自分)とは違う人を蔑むようになる。あらゆる差別の根底にこの学習があるだろう。

並外れて小さく(1〜2才小さく見られた)、並外れて不健康で(喘息発作とその治療で週休3日ペース)、見えないおともだちが複数いるのでいつも独り言を言っているように周りには思われ、食物アレルギーのためみんなと同じものが食べられないことも多く、しかも極端な少食でゆっくりしか食べられず、計算が苦手で、体育も苦手。

みんなと同じようにはできないことが多すぎて、自分と誰かを比較して嘆くどころじゃなかった。

「みんなすごいなぁ」

と、単純に「普通」を賞賛していた。

取り替えの効かない身体や頭のことで「普通」を貰えなかった運命を嘆き、比較して羨むという発想がまるでなく、単純に「すごいなぁ」と思っていた。

足の速い同級生の太腿の筋肉が自分の貧弱な脚と違って美しいと感じたり、計算が速い人や美しい字を書く人を素敵だと思うことはあったが、それらが自分に無いことを嘆くとか羨ましいと思うことは無かった。

自分と誰かを比べるという思考の習慣は、比較される経験だけではなく、身近な比較対象との間に「埋め難い差」が無く、努力で何とかなりそうと感じることでも強化されるのではないだろうか。

身体も大きく健康で、勉強もできて、運動神経も抜群の姉とは、親や先生から比較されまくったけれど「どないせぇちゅうねん」としか思わなかった。頑張れば手に入れられるものだとは思えなかった。学力以外に努力で何とかできることでは無かった上に、努力する体力すら無かったのだ。

比較して嘆く、比較して羨むといった思考の代わりに…なのかどうか今となってはわからないが、わたしは「観察」をたっぷりしていた気がする。

身体の動き、表情、言葉遣いを観察し、見えないおともだちとヒソヒソ検証し合う。すごいね、素敵だね、きれいだね、しなやかだね、力強いね、優雅だね、不思議だね、怖いね、どういうことなんだろう…。

その場の感情に任せて出まかせを言う人、支配するために暴力や脅しを利用する人、意地悪をして困っているor悲しむ姿を見て楽しいと感じる人、言っていることとやってる事が一致しない人…がいることにかなり早くから気づいていた。

与えられる時間は公平だ。何にどう使うかは選べるようで選べないし、選べないようで選べる。羨んだり、妬んだりするのではなく、観察することをなぜだか選んだ。たぶんそのほうが苦しくなかったから。

羨ましいと感じたり、妬んだり、僻むのは、「それが自分にもあってしかるべき」という前提があってはじめて生じる感覚なのではないだろうか。億万長者の家庭に生まれた容姿も頭脳も飛び抜けて優れた雲の上にいるような人に対して、一般の人は自分と比較して嫉妬したり卑屈になったりはあまりしない。身近にいるクラスメイトや近所の人、たまたま出会った友だちの知りあいの幸運や恵まれた要素は羨ましく感じる。手が届きそうなのに手に入らない悔しさのことを「羨む」というのだろうし、自分の手が届きそうなのに手に入らないものを持っている相手に不公平さを感じることを「妬み」というのだろう。

よかったね。すごいね。すてきだね。…では済まず、じぶんにはその幸運や恵みが無いことを嘆く。それが「うらやましい」であり「ねたみ」「ひがみ」「そねみ」。

小さな頃に「うらやむ」という思考パターンが身につかなかったおかげで、その感情のことを知ってはいてもその苦しさはなかなか理解できなかった。それでも、結婚して実家に置いてきた犬が亡くなり、家族の反対や住宅事情によって犬が飼えなかった10年の間は、犬を散歩させている人を見るたびに「うらやましい」と思い、「いつか状況が変わったら必ず飼うのだ」と拳が固くなっていた。そして、これが「うらやましい」の苦しさなのかと記憶した。

18年の結婚生活は幸せとは言いがたかったけれど、物理的に母から干渉されずに済む距離がとれたことで多少の安らぎはあった。元夫からの今で言うモラハラは酷かったが、それ以外の人に恵まれ、学習の機会を得ることで自尊心を守ることも覚えた。

楽しかった思い出や、幸せを感じたことが無いわけではない。でも「戻りたい過去」は無く、常に「今がいちばんマシ」。40歳まではずっとそう感じていた。

マシ。理想的とは言えないが他よりもわずかに優れているときの形容動詞。

幸せとは言いがたかったけれど、「幸せだった頃のわたし」を思い出して嘆こうにもそんなものはなかったのだ。「生きてていいのかな」という疑念の中で過ごした34年、犬がきて、ホメオパシーに出会って「生きていこう」と決めた6年、その次にやってきたのが離婚と今のパートナーとの暮らし。

この人と一緒なら年をとることが怖くない。そう思えるパートナーとの出会いはご褒美なのかもしれないとさえ思った。ホメオパシーバッシングがあって一時期は家賃の心配をするような状況にも陥ったりしたけれど、それでも戻りたい過去などどこにもなかった。

戻りたい過去がないのは幸せなことだと思った。振り向いてノスタルジーに耽る時間をとられずに済むし、前さえ向いて行動すれば道が見える。前を向いているつもりが横道にそれていたり、同じところをぐるぐる回っていたとしても、幸せという光がどこからさすのかは常に決まっている。良心にしたがうのだ。

欲望を満たすために誰かや何かを支配したり奪ったりするのではなく、
必要を満たすための欲求と良心に従うのだ。

真理、美、健康、幸福、光
地、水、火、風、空

森羅万象を構成する要素を言い表したもので、5つがバランスよく揃えば調和がうまれる。必要は満たしあわれて調和が生まれ、欲望は奪い合いになり調和が乱れる。個人の健康が欲望による過剰と不足と滞りで損なわれるように、世の中の健全性も生態系もバランスを乱すのは欲望なのだろう。欲望を暴走させるのはヒトだけ。

欲求は不足が生じたらわきあがり、満たされればおさまる。
欲望は満たされることがない。もっと、もっと、といくらでも膨れ上がる。上には上がいる。上昇すればするほど転落する恐怖に苛まれ、もっと、もっと、と要塞を築くようにかき集めたくなる。

競うためのスタートラインに着けなかった幼少期は、上を目指す欲望に囚われる機会が「無い」という幸運だったと今となっては思う。

それは「あきらめ」だったのかもしれないけれど、理想を思い描いていないわけではなかった。

父方の祖父母を訪ねたときに、従姉妹のおねえさんが暗くなってから懐中電灯を手に畑へ「夕飯に食べる大根をとりに」連れて行ってくれたとき、「こんな素敵な暮らしがしてみたい!」と思ったことは忘れない。祖父が「台所は生き物が食べ物に変わるところ」と大切な真理を教えてくれたことも忘れない。父が「自分よりも必要そうな人には譲るんだ」と電車で席を立ったことも忘れない。反面教師もいたけれど、行動や暮らしのお手本も存在したのだ。実践できるお手本があったことは、幸せ以外のなにものでもなく、実践できていることこそ幸せに感じる。

今がいちばんマシ、の40年のあとの、今がいちばん幸せの15年が過ぎて、今も「今がいちばん幸せ」と思える幸せ。これは「幸せのハードル」が低くセットされた幼少期の賜物なのかもしれない。

比べてもどうにもならなかった子ども時代
欲求をごまかすことができないポンコツな身体
見えないお友だち(小さな頃は5人以上、今は3人でメインはひとり)のお陰(せい)で自分を偽れない
…という状況(条件)は一見すると悲惨このうえないのかもしれないけれど、これこそが恵みだったとも思えるのだ。

自分を誰かと比べて優劣つけないこと
欲求(ニーズ)には正直になること
欺かないこと(特に自分を)
…他にもあるかもしれないけれど、この3つが実践できるだけでも「幸せのハードル」は低くできるかもしれない。

比べないこと=優劣つけないこと
ではない。
比べれば違いは「ある」。共通点も「ある」だろう。違いも共通点もただ特徴として出会うためにそこに「ある」のだ。わたしたちの五感は違いを認識しなくては何とも、誰とも出会えないようにできている。ただ、その違いに優劣、正誤、美醜などの物差しを持ち込むことで対等さは失われる。等しく尊かったはずのものの一方がその尊さを損なわれるということ。人からされれば傷つくのに、自分でもやっちゃう。そして羨んだり妬んだり…。

競わないことを「無気力」ととらえる人がいるのは知っているけれど、自分がやりたいことを見失わなければ無気力でいる暇など一秒もない。好奇心、興味関心が何に、どこに向かっているのかを「やりなさい」「やっちゃだめ」でがんじがらめにして鈍麻させたうえで、「やりなさい」の競争を諦めた状態を「無気力」というのだと思う。好奇心は知的欲求だ。大人は子どもの好奇心が安全に満たされるように(大怪我しないように)補助すればいい。大人になっても旅先で感じる感動や好奇心は、子どもが新しいものと出会ったときの感動や好奇心と同じものだ。子どもが感じるもの、旅先で感じるものが日常に現れた「新しいもの」「ちがい」には感じられないのだとしたら、なぜなのか考えてみて欲しい。「優劣を競うクセ」「正誤の判断を押し付けて蔑むクセ」がいつ、どこで、誰から刷り込まれたものなのか、振り返ってみて欲しい。

「しなくてもいい」ことをいっぱいしていたことに気づくこと。
これもきっと「幸せのハードル」を下げるための鍵なんだと思う。
ほとんどの人がこの鍵をもってるんじゃないかな、たぶん。


(追記】

地震の被災地で家を失ったり、帰れない状態で避難所暮らしを余儀なくされる方の幸せのために知っておいてほしいことがあります。


2分でわかる! “マズローの欲求5段階説” より

食べ物、飲み物、睡眠、排泄などの生理的欲求
安心して過ごすことのできる空間
人とのつながり
自律性や有用感…といった欠乏欲求は「人権」「尊厳」です。

これらが満たされるよう、当事者として遠慮も躊躇もせず「必要です」とニーズを伝えてください。不足しているものがあればモノでもコトでも伝えてください。なにかできることが無いか一緒に考えて力になりたいです。

被災した人たちが復興まで不幸なままでいていいわけがありません。少しでも安心して幸せを感じてほしいです。


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