ブルアカ「白亜の予告状」の感想文。正しさ、孤独な探求者について
ブルーアーカイブの新イベント「白亜の予告状」めちゃくちゃ良かったです。ゲーム開発部もバ***キもめちゃくちゃ可愛いかった。
なので、今回のイベントで初登場の「慈愛の怪盗」について語ります。
注意
ネタバレばりばりあります。
「慈愛の怪盗」の考え方というか生き方みたいなものに関して私が感じたことを書きます。だいぶ私の思想が入ってます。
正しさ、孤独な探求者について
「慈愛の怪盗」こと、アキラは、自称(他称?)しているとおり怪盗である。ブルアカ2周年勢のため、ブルアカの七囚人の設定に詳しくない(というか情報出てる?)が、まぁアキラは、少し前まで捕まっていた犯罪者ということになる。特定の学園に所属するでもなく、部活に所属するでもなく、1人で「怪盗」をしている。
矛盾する美学?
彼女は、「美術品の真の価値を理解できるのは私だけ」という傲慢な考えから怪盗をしている。価値の分からない者たちの前に晒すのも許せないというくらいに。
ただその一方で、これと矛盾するような発言もしている。
「美術品とは、全てのお嬢さん方のために存在すべきである」
まるで、真の美を理解できる自分だけが"お嬢さん方"に該当するかのような
「価値を理解する人が居なければ、その存在は呆気なく闇に埋もれてしまうもの。いつの日か、美の理解者が現れることを願って」
存在を埋もれさせないためには、多くの人の目に触れた方がいいんじゃないか。でも、美の理解者以外に見せることは無駄だと言っているような
ある種ちぐはぐというか、素直に繋がらない美学である。
あるいは、傲慢すぎるというか。
(強い神が自分にはついているぞというような……(別作品サクラノシリーズ参照))
人に認識されることが価値を規定する
ブルアカの最終編では「理解しえない他者を通じて己の理解を得る」というようなテーマが登場したが、今回アキラが示したものは、むしろこれを逆転させたような思想だ。
「他者を通じて己の理解を得る」のではなく、
「他者が己の価値や役割を規定する」
そこにあるのは、対象への真の理解ではなく、一方的な押し付けである。
ゆえに、
真の価値を理解しない者によって、美術品が展示され、誤ったラベルが付けられること。それによって、美術品が真に理解されることから遠ざかること。
それこそがアキラが阻止したいことなんだろうなと
他者によって誤ったラベルが貼られるくらいなら、正しいラベルを貼れる者以外には見せない。
理解してくれる人以外には心を開かない。
そして、そんなことをしているアキラ自身、自分のことを、自分の美学のことを、「ただの一度も理解されない」と思っている。
孤独に正しくあること
ここだけ見ていると、アキラはかなり他人を信用していないのが分かる。
自分のことを理解してくれない、でも、それでもいい、自分の正しいと思うことをやる。
「正しさ」というのは、多数決で決まるわけじゃないので、みんなに認められれば正しいとはならない。
時代を先取りしすぎた発明や作品が理解されずに埋もれるように
そして、そんなものを信じる人はどうしても周りに理解されないように
正しさの探究は、ときに、孤独になりうる。
その正しさは誰が証明してくれるのだろう。
まわりが自分よりバカばっかりだったら、誰にも相談なんてできないし。
ただ、自分の信じるものに従って孤独に戦わなければいけないんだろうか。
でも、それってすごく危ないし脆い思想だよね。
っていう、それ自体も、実は彼女は気づいていて、
ああでも、そんな疑念があったとしても。
彼女の中で、彼女の美学が正しいことは覆らない。
だから怪盗であり続けるしか無い。
(それでも、たがいを理解することを、努力することをやめてはいけない、というのは先生の思想)
あのバンドの歌詞みたいに、ひたすら孤高であるべきなのか。
正しさを貫く意地を引っ込めて、相互理解の努力をするのか。
他人の意見を聞くことって、自分の考えを止めることじゃないわけで、大体他人は勝手なこというけど、でも、他人がいなきゃ自分を顧みることもできなくて、だから、理解者の方から来てほしいけど、理解者なんてきっといなくて。
なぁ、先生のこと好きすぎだろ!振られたらどんな反応するんだろうなぁ……
そんな感じで、他者から認知されること、ラベルを貼られることについて一家言あるアキラだから、先生を想う気持ちに名前をつけないで、先生に気持ちの名をいただきに行くっていうのは、もう、めちゃめちゃ好きじゃん!ってわけですね。いやぁこれ、「ちゃんとした恋じゃなくて、憧れとか、初めての理解された嬉しさを勘違いしているだけだよ」とか返されて振られるシーン見たいですね!!ではでは!!