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若い女子、という社会的特権について

仕事でとても落ち込むことがあった。

飲み会の席で、「〇〇さん(私の上司的なポジション)とデキてるのかな?と思われるような距離感に、気をつけた方がいいよ」と言われたのだ。

言ってきた人は二、三回話したことがある顔見知りの人で、私の上司と同世代…つまり、私より20歳以上は年上の男性だ。
とても優秀で良い人だし、酒の席で酔いながら、「心配してるから言うんだけど」と言っていた。実際、私についての文句というより、「僕は違うと分かっているけど、そういう風に憶測するような人もいるから、気をつけた方がいいよ」と言うニュアンスで言ってくれていた。本当に心配して言ってくれているのだろう、と感じた。その場にいた他の人も、美味そうにビールを飲みながら、「そうだねえ、あと△△さんとかもね〜女癖わるいから。そう見えるわ」と乗っかってきた。
私は否定しつつ、「気をつけます、アドバイスありがとうございます」と答えた。私のハイボールはものすごくまずくなった。落ち込んだし、居心地が悪くなった。
やはりそういう見方をされるんだ、とも思った。

私はいわゆる理系の職場にいる。周りは皆男性。私は広報で、事務的な仕事もするけれど、基本的には周りの方の仕事のサポートとか、宣伝をするに過ぎない。誤解がないように言うと、私は広報の仕事がしたくてしているし、やりがいをもってやっている。でも、仕事上のジャンルの違いがあり、それ故の地位や年収の差はある。

上司は、私が広報をしたいというのを知って引き抜いてくれた人だ。今回のように、たくさんの偉い人が集まる場にも同席させてくれるなど、いろいろな場所に連れて行ったり経験を積ませようとしてくれている。
だがそれは、周りから見れば「なんであんな若い女が急に出てきたんだ?」「〇〇さんの愛人だからかな?」みたいなかんじに映ったりしているのかもしれない(実際、映っているからわざわざ直接助言してくれたのだろう)と、それを初めて自覚した。

私はその客観的な見え方そのものが悲しかった。私と上司はそんな関係ではもちろんない。だが上司はフランクな人で、周りの人にもタメ語で話すような人だから、自然と私とも距離が近い。でも、私が仮に男だったら、こんな憶測は立たないのだろう。ただ単に、可愛がっている若造、くらいの認識で受け入れられるのだろう。そう思った。

上司は、私の仕事を他の人の前で褒めたりしてくれ、私は仕事内容を褒められることをうれしいと感じていた。必要とされていると思えたし、やりたいことで少しでも成果を出せているようにモチベーションを保持させてくれているのだと、ありがたくも思った。
でも今回の助言を受けて、こういった賛辞すら、実際の仕事能力への賛辞ではなくプライベートな戯れなんだろうと、他者からは思われるのでは、と、少しこわくなった。


周りにはスペックの高い男性ばかりで、職場がもし婚活会場ならば、多くの女性が詰め掛けると思う。でも私は、彼らの中にある「なにか」に、いつも違和感を抱いている。もちろん全員ではないだろうけれど。

若い女子というものに対する深層心理的な優越とか庇護欲とかアクセ感覚?の強さを感じるのだ。
話してみれば、優しい普通のおじさん・男性だったりするのだが、私の能力とかやりたいこと以上に、若い女子としてのステータスや存在意義をおそろしく限定化し、無配慮に当て嵌めてくるような無言の「なにか」を感じる。

たとえばそれは仕事の場や飲み会の場だけではない。奥さんや彼女がいるのに、私の時間を拘束してきたり、デートやらなんやらと軽口を言って誘ってくることもある。仕事上の付き合いとして行っても、私は一銭たりともご飯代を出さなくて良い…コーヒー代さえもだ。メリット、デメリットというものを取っ払ってひとことでいうならば、平等ではない職場文化がある。おんぶに抱っこのような状態で、周りから見れば、私はただちやほやされている若い女子に過ぎない。一、二世代前の、お茶汲み女子やら、いるだけでOKみたいな女性的役割を、悪気なく担当させられているのかもしれない。


この妙な「特権」により、実際に助けられている部分があるのも事実だ。私は「若い女子だから」男性からわからないことをたくさん教えてもらえたり、いろんな店に連れて行ってもらえたり、おごってもらったり、好きなものを買ってもらえたり、耳障りの良い言葉を言われる。でも、それは、そもそも彼らの意識の中で私は平等ではないからなのだ。


私は、フェミニズム論争とか、男女平等論とかにこのもやもやを収束させるつもりはない。
あるいは、男女間はプラトニックであり得るのかとか、男性は往々にして若い女に弱いのかとか、検証できない多くの説に落ち着かせるつもりもない。

ただ、(他者が自分に何を求めているのだろう、というのではなく)自分がいったい何を求めているのだろうと、それを考え続けさせられることを吐き出したかった。

若い女の特権なるものが仮にあるならば(それは実際、体感としてあるのだが)、それに甘んじて謳歌すればいいじゃないか。なにも考えず、言いたい奴には言わせておけば良い。蜜を吸いながら、利用して成長してやればいい。そう思う自分もいる。
一方で、それが私の自意識とは明らかに異なることがわかっているから、男性の馬が合う同僚との関わりや協力関係をまわりに勘繰られたり、その傘下にいる無能な人間という見られ方に憤りや、かなしさを感じる自分もいる。

その結果、私はこの職場で彼氏を作ることは絶対にないし、もう全く違う場所で、まったく関係のない一個人として、出会いたいと思うようになった。あるいは、私は女性を好きになることもあるから、女性とパートナーになってそれを職場で公言でもすれば、この妙な空気感を一刀両断できるだろうか、とすら考えている。

少なくとも、下手な勘ぐりを無効化し、この紅一点としてのバランサーに徹するには、色々な気の遣い方やコミュニケーションの取り方が試されていると感じる。

それに、今は若い女だが、それは永遠ではない。むしろほんの一過性のアイデンティティに過ぎない。となれば、私の価値は、今後この人たちの中では下がり続けるものなのかもしれない。
たとえば結婚したら、社会的価値は上がるのだろうか。私はそうは思わないけれど、社会的な目を気にして婚活をするひとだって珍しくないだろう。

それでは私は、何をもって自分の価値を担保していきたいのだろうか。スキルや財産だろうか。経験や人脈だろうか。それとも、こんなふうに答えが出ないまま考え続け、書き続けることを、何か私にとって意味付けられるだろうか。他者の評価や社会の特権に縛られない私を、意味づけられるだろうか?

そもそも、価値とは極めて人間的で社会的な指標だ。価値ある、と思われることや思わせることは社会人として必要とされるし、自己承認欲求を満たすためにも必要だ。しかしその指標については環境や人によって様々だ。

私たちはきわめて多様な「なにか」に囚われている。
そのひとつに違和感を持つというのは、ある意味で、私の中における、価値なるものの輪郭を象っている…、あるいは輪郭などないのだいうことを、気づかせているのかもしれない。

こういう悶々とした気持ちを抱える私に、「ねえねえ、価値あるものはこれだったよ」と、掘り起こした小さな記憶に笑ってしまうように、教えてあげたくなる日が来たらいい。そんな日が来たら良いなあ。

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