セブ島にて

画像1 約5時間のフライト。今回選んだ本は、星野道夫著「旅をする木」だ。小学生の教科書に、鮭を取る熊の写真が載っていたのが印象的だった。大人になって文章を読むと、真っ直ぐな言葉で旅とは何かを語り続けていて、心に響く。人生は旅のようなものだ、と星野氏は言う。その言葉をいま噛み締める。どこかに行って考え、何かを見て考え、誰かに出会って考え、そういうことを書き記していくことが私は好きで、それは確かに人生みたいなものだ。
画像2 贅沢、の概念。美しい海とプールを眺め、甘やかなカクテルで乾杯をし、中身のない満足を語り合って、気が向いたら目の前の海やプールにダイブだ。サーバーの男性に、GWの存在を説明したら、羨ましがられた。出稼ぎに来ている彼は、休暇もなく、贅沢できないと。彼はキラキラな笑顔でパッションカクテルなんて運んでいた。少し心がざわついた。ここは絵画ではなく現実。流したくない現実
画像3 バナナ、パパイヤ、ドラゴンフルーツ、マンゴスチン、マンゴー、パイナップル、ポメロ、ピンクグレープフルーツ、ドリアン。フルーツ天国だ。ドリアンだけはどうしても無理だった。彼女は「あまくて美味しいのに」と完食してくれた。信じられないことに、人間の味覚ってこうも違うのだ。味覚だけじゃなく彼女と私は何もかも違う。理解し合うには時間が足りなすぎる。今が面白い、明日がわくわくする。それってとても贅沢なことだ。
画像4 無加工でこの青さ。南国の花が香ってくる。32度の常夏、雲ひとつなく、これほどに空は広かったのかと、月並みに驚く。まるで自分はいつか死ぬのだ、とふと認識するときのようだ。雲ひとつない青空は、時間の概念を忘れさせる。
画像5 美しいリゾートだが、東南アジアは物価が安い。円安もどこ吹く風。リゾートから数歩出たら、物乞いをする老若男女と、今にも壊れそうな木造の家。痩せ細った大量のこどもたちのビー玉のようにおおきな瞳は、揺らぎようもなくしかとこちらを見つめていた。その瞳たちがこわくて、移動はすべてタクシーを使った。彼らにカメラを向けることはおろか直視することすらできなかったので、写真はない。この美しく澄み切った水面を眺めているとき、私は同時に、果てしない不条理から目を背けている。箱庭のような楽園は常に現実の裏側に存在している。
画像6 贅沢の概念といえば、ビュッフェ。子どもの頃、家族旅行で泊まったホテルの朝食がバイキングだと、とても喜んだ記憶がある。昔は好物を見境無く取っては、呆れ顔の父や兄に食べてもらっていた。いまでは自分に合うものを、完食できる量だけ選ぶ。休暇中はチートデイと決めていたが、日本では修行中のため、癖でGI値を意識した選択をしてしまう。有り体にいう"節制"が身に付いてはじめて、気がついた。何も考えなくていい幸せこそが贅沢ということだったのかもしれない、ビュッフェそのものではなく。でもその時、贅沢という概念は死んでいる。
画像7 最近、体験にお金を掛けたいと思うようになった。旅、大切な人との時間、文化や自然に触れること、新しい景色。目の前に広がるのは、宮殿でも世界遺産でもない、ただ広がる海だ。普段内陸に住む私にとって、海は貴重だとはいえ、片道5時間のフライトでここに来ているのだ。ばからしいかもしれないが…今、普段会えない彼女と、漸く再会している…と思うと、それは互いの国ではいけなかった。ここでなくてはならなかった。その説明不可能な抒情こそ、体験的価値の醍醐味なのだ。
画像8 混沌とした車道を駆け抜けていくバイクたち。多くが2人乗りで、老若男女問わないが、カップルが多い。中にはワンちゃん連れ(2人1匹乗り!)までいた!車もバイクも自転車も、さらには身一つで駆け抜けていく人もいる車道は、正直ひやひやものだ。だがそれはそれとして、謎のエナジーをひしひしと感じる。タクシーの車内には甘ったるいフォークソング。人混みも喧騒も好きではないのに、混沌にあてられて、ちょっとたのしかった。たくさんの生があつまると、こんなにも賑やかで、ちかちかとして、明るいのだ。

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