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短期と長期、公共性への回帰、死生観的円環

以下、完全に個人の話。

途中いろいろあれど、国家公務員もゲーム業界もざっくり7年ぐらいずつ経験してきて、転換期を感じている今日この頃。

公務員は、教育、社会保障、環境、公共事業など、ハード・ソフトの社会インフラ整備を取り扱う。
そのような公共なるものは、1つのプロジェクトを長期的に取り組むものがほとんどであるが、人事異動が2年程度で発生し短期的なため、何か特定のイシューに対し知識経験的に深い終着点には辿り着くことは難しい。

そういった取り扱うイシューとの長期的な関係性や選択権の皆無さが要因の1つとなり、公務員辞めたの10年前。

その後、上海に渡り、ほどなくしてゲーム業界に足を踏み入れた。
ゲームは専門知識やスキルがないとできない業界だが、Webベースでシンプルロジックなゲームの市場がGREEMobageによって拡大したおかげで、タイミング的に多くの参入企業とともに私のような1ゲームファンにも門戸が開かれた。

しかしながら、市場の急拡大により、ゲーム1タイトルのビジネスサイクル、さらに企業経営の投資回収判断が短期化にシフト。
そういった要請に応えるべく、月ベースの売上を5倍にブーストさせたりもしたが、どんどん仕事がスポ根化していった(個人的な肌感)。
それはそれで高揚感があり、重要なことでもあったけど、そういった体験は自分も含め人々の記憶から簡単に消えやすく、徐々に意味を感じなくなってきた。

この言葉なんかはまさにって感じかな。

「会社が消え、最後に残るのはキャラクターとIP(知的財産権)しかありません。」


そういったこれまでの経験を踏まえ、反芻しながら、どうやって長期的なものに素潜りできるかということを最近考えている。

1つのアプローチとしては、公共分野への回帰。円環。
2年で異動を繰り返す公務員とかではなく、今までのコンテクストを乗っけたうえで、どの分野に対し、どんな座組で、どんな付加価値を追求できるのか、ゼロベースで思考している。

また、長期的とはどの程度長期なのか、死ぬまでに達成すべき何かか、死んでも続いていくもののプロセスなのか。

というか、そもそも死とはフィジカルな死をもって死なのだろうかと、こうやって死生観なるものに接続されるのは鉄板ネタなのかもしれない。

そういえば、死について、ワンピースでも、
「・・・人に、忘れられた時さ・・・!!!」

とヒルルクが死ぬ直前のシーンであったが、ヒルルクはいつどういう時にこの生き方を決断したんだろうか、ということを、まずは憑依して考えてみたり。

というのは、表立って描かれる内容に対する、それに至った意思決定とかを感じる方法として、漫画アニメとかのコンテンツ側を利用するのが良いのかもしれない。

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