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02.返信不要というメッセージの心理


「返信不要ですって締めがしびれるね」

うわー,元気してたー?というちひろさんの少し高めで華やかな挨拶とハイタッチの後,ハイボールを一杯おかわりして乾杯した。角で作ったハイボールに,ほんの少しラフロイグをフロートする。スモーキーな香りがほんのりする飲み方はこのバーで教わった。

バーに来なくなった1年のあいだに結婚して,こどもができて,生まれて,3か月が経って,嫁が出てったって話した。「スピーディー」と言ってちひろさんは爆笑である。今日の昼に来た義母から来た『返信不要です』と締められたメッセージを見せると,もう一笑いしてピクルスを口に入れてビールを飲んだ。

ちひろさんにここで出会ったのはバーに通い始めた初期の頃。だから出会ってからは6年ほどの時間が経っている。仕事以外のプライベートな場と言えば概ね夜のこのバーだったので,ある種,第二の青春の同士である。なんなら一度,付き合おうとしたこともある。ずいぶん深酒の,酔いの席での話なので,うやむやだったし,ちひろさんはきっとそんなこと覚えていないだろうけれど。

「たいてい本当に返信が要らなかったら『返信不要です』なんていれないからね」

『返信不要です』ってメッセージには意図がある。

1 お手間かかるでしょうし返信は不要ですからねという気づかい
2 返信が来なかったときの為の防衛線的な意味
3 あんたのメッセージなんて受け取りたくないんだよ

いやまあ,馬鹿じゃないんだから1や2じゃないってことはわかるよ。

さらなる地獄がここにある。

・返信したら,返信不要って入れたのに返信してきたよこの人ってレッテルを貼る
・返信しなかったらしなかったで,本当に返信してこなかったよこの人ってレッテルを貼る

詰め将棋みたいに行き詰まっているのである。


「どっちに転んでも地獄よね,うける」

『返信不要です』はちひろさんに,うけるのである。
受け取った本人はたまったもんじゃないけれど。どっちにせよ,よくわからないレッテルを貼られるならば,返信した方がいいじゃない。やらない後悔より,やる後悔じゃない。そう奮い立って,昼に件のメッセージを受け取った後は早々に返信した。

認識合わせをしようにも,冷静にお話できる状態でない期間が続き悲しかったです。産前産後,自分の思い通りにならないことが多くて今のような状態になったのかもしれません。しっかりと話し合ってコミュニケーションをとれるようになることを願っています。

「そのあとの向こうからの返信は?」ちひろさんが問うたので,次にスライドしてそのまま見せた。

やっぱりあなたは何もわかってない。やはりしばらくのあいだ,娘はこちらで過ごした方がいいように思います。

「で?」頬にはずっと笑みが浮かんでいる。

何がわかっていないのかわからないです…。できれば教えてください。

それに続く返信。

わからないのが問題かもね。康一さんはいろいろと分析することが得意なようだけれど,たった一人の相手のことがわからないようではだめだと思います。小さなことからコツコツとですよ。残念。
ありがとうございます。精進します。。。

そこでやり取りは終えた。それが今日の15:20。既読。

「その義母はなかなかやり手だね」

僕からしたら,返信不要って言っていた割には返信したら沢山戻りもあるし,『わからないから教えて欲しい』って低姿勢に質問しているのに,最後のこたえは『残念』ってなんのこっちゃだよって。本当に詰まれにいくためだけの将棋な気分であった。やり手もなにも,こんなのはただのいじわるではないか。

洗い物もする,家事もする。確かに仕事の関係で家に帰るのは遅いかもしれない。何度も頭をさげて話し合いたいって問いかけた。相手が怒った時は常々こちらが折れて謝った。そりゃ相手から見たらダメなところだってあるかもしれない。でもそんなの些細なことだと思う。別にDVがある訳でも,浮気してる訳でもなしに,酒だって控えているし,バーにだって行かなくなった。タバコも家では吸わないよ。なのに,相談もなしに家を出て行くってどういうことだよって。こどももいるのに少々軽率な行動なんじゃないかって内心で,何一つ納得いっていない。喧嘩したって仕方がないし,率直な思いを返したって火に油だし,それくらいの分別はついているし,感情をコントロールできなくなる自分なんて嫌だから,ぐっと抑えて返信したんだ『わからないから教えてくれって』。それをなんだ『残念』って。

ちひろさんは「ぐっと抑えた返信をしたことは評価してあげるよ」と言って,爆笑しながらビールを飲み干した。

「店長ー,康一君がへっこんでるから,もう少しお酒付き合ってあげようと思うよ。赤ワイングラスでちょうだい」

酒の肴になれることは光栄である。

「だったら僕も飲みます」木曜日だけど。

「じゃあボトルにしよっか。2,3杯ずつくらいすぐでしょ。店長,ちょっと重めのお手頃価格の赤のやつ,持ってきて」

店長は了解して,20本ほど入るワインセラーからカベルネのボトルを持ってきた。

「はい,どうぞ。いつものよりちょっといいやつだけど,価格はいつものお手頃価格でサービスだよ。へっこんでる康ちゃんのために」

「へこんでるでしょ」と僕は返した。

「へっこんでる,の方がへこんでそうでかわいいじゃん。飲もう飲もう。店長も飲もう」

店長が注いでくれたグラスを片手に,ちひろさんが乾杯を促した。

「おっかえりなさーい」店長が言った。

ここに来てよかった。


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