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「白い」ものがちらほらと

鏡をのぞくと頭頂部の前寄りに白いものがちらほらと

デザイナーで年上の知人がそういうことをSNSで投稿していて、フケのことを指しているんだか、白髪のことを指しているんだかどっちだろうなー、なんて思ったことがある。

当時20代後半だったかな。

フケだったら、ハードワークがたたって風呂に入れてないってことを描写したかったのだろうし、白髪だったら、ふとした時に自身の老いに気づいた様を投稿したんだろうし。

いずれにせよ詩的な表現だな、と感じたことを覚えている。

賢明な読者さんであらば気づくであろうけれど「白いものがちらほらと」なんて言い回しは、詩的でもなんでもなく、「白髪」を婉曲に表現するための常套句であり、もはやぼろ雑巾が擦り切れ倒して再利用の末糸くずにまでなるくらい使い古された表現です。

小説でも、そこいらの記事でもしばしば見受ける。※今ネットで検索してみると都合の悪いことに一番上にヒットしたのがしらみの描写だったので一人苦笑しましたが、大抵は「白いものがちらほらと」と言えば白髪の描写です。

一つの表現を見て「詩的だな」と感動するのか、「よくある表現の一つだ」と流すのとでは大きく心の動きが異なる。

物を知らなければ、常套句であるにもかかわらず翻弄されて本質を見誤るかもしれないとふわりと思う。要は、時にその人を過大評価してしまう可能性があると。逆に、物を知ることで、感動すべきところで適切に感動できないケースが出てくる可能性がある。あるいは人を過小評価で貶める場合さえある。

どちらが良いというわけではなくて、それは、当然たる認識機能の作用として。

ちなみに使い古された物言いのことを「ぼろ雑巾」と表現することも、読者に対して一つ聞き入れてもらうためのレトリックとして「賢明な読者なら」と語りかけるのもどちらも常套句です。そこかしこで使いまわされまくっていて、今日の記事なんか、あえてそのように誂えたのだけれど、見る人が見ればありきたりな割に回りくどい書き方をする奴だと受け取られるかもしれないそういうくだり。逆に、婉曲表現がうまくハマり、興味深い言い回しがたくさんあると受け取ってくれる可能性もなくはない

当時、無知ゆえに心揺さぶられたからこそ、その表現が頭にこびりついているのだけれど、今ふとそのような表現に出会ったら、当時ほど心に残るかと問うてみると、良くわからない。

知れば知るほど心に残る事柄が減るのかもしれないと考えると、今一度、謙虚さであり、フラットな在り方に重きを置きたいと言う気持ちが湧くのです。実際のところは、色に染まれば染まるほど、空白部分が目立つようなので。

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