「溺れている人」に溺れるなって言う人
川でも海でもいいのだけれど、目の前で「バシャバシャバシャ」と溺れている人がいたとして「なに溺れているんだ!」「溺れちゃだめだよ!」「溺れないほうがいいよ!」なんて言っても溺れている人にとっては、ほぼほぼ無意味な訳です。
溺れているので。
そもそも聞こえないでしょうし、溺れている人にとって「溺れないほうがいいよ!」って言葉は何の解決にもなりません。ちなみに、素人が安易に助けに行くのも危険だともよく聞きます。溺れている人がパニックになってしがみついてきてしまったりするからですね。すなわち助けるためには自身の安全を確保して、適切な方法で応ずる必要がある。
溺れている人に「溺れるな!」って言うことがなんてナンセンスなんだということであったり、適切な救助法があるということであったりは、実際に溺れている人をイメージすると割と簡単に理解できます。
しかしながら。
これ、ちょっとシーンが変わると、ついつい想像力を欠いてしまうのです。
・承認欲求に飢えてSNSに依存してしまっている人
・自身の正義を疑わず客観的な意見を聞けなくなってしまっている人
・誤りを攻撃することで自身の快楽を得ている人
・多様性を高らかに叫んで、多様でないことを受け入れられない人
依存している人に「依存するな」って言ったって聞けないだろうし、正義を信じて止まない人に「別の考えもあるかもよ」って言ったってそれは悪の手先のように映るかもしれません。
他者を攻撃することが快楽の手段になっている人にとっては、攻撃を諫められることがすなわち自身への攻撃に感じ得ます。
多様性の話は最近のトレンドなので、ちょっと粒度が異なりますけど書きました。「多様でないことも一つの在り方だよ」なんて多様性過激派グループにとっては、てんで受け入れられないことなのであります。
こういう状態がダメだって言うてる訳じゃありませんよ。
依存することも、固執することも、時に自身の自由のために他の者の自由を侵害することも。そして、自己矛盾を抱えながら理想を掲げることも。
これは個人の自由です。
ただ。
自身の快楽あるいは不快からの脱出という意味で個人の自由を求めているにもかかわらず、自身の行動によって自身を苦しめてしまっているというケースは世の中にぐっすらありまして。また、そこから逃れたいと思いつつ、うまく抜け出せないということも、ままある訳です。
そういう人に対して
「依存するな!」「固執するな!」
「攻撃するな!」「矛盾するな!」
は無理ですよってことです。
溺れているので。
誰かに何かを言うとき、発信するとき、はたまた助言を求められたとき。
溺れている人に「溺れるな」みたいなナンセンスぶっかましていないかってね、こころに余裕のある時は見返してみてもいいかもしれません。
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たまに自分が溺れていることもあるんでね。
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