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ヒトとしての「成熟」

高校三年生の時に「青春とは」という題で文章を書きなさいという課題がありまして。当時私の出した答えは「青春とは知ることを愛することである」であった。

知ることを愛している限りは青春は終わらないと。

今振り返っても、というか、当時の記憶が割と強く残っているので、今でもそういう節で青春を捉えている感がある。一理あると思う。

当時から今でも仲の良い知人は「青春とはポカリスウェットである」と述べていた。青春である。

そんなことを思い出しながらもただ、やはり青春は、生物学的な若さ、すなわち若年であることがセットなんだろうなって。当時は格好をつけて青春と若さには関係がないと、年を重ねても青春は続くって整理したけれども、そんな片意地張らなくてもいいように思えるくらい、青春は秋色に染まりつつある。少し切ない。

時同じ頃、大槻ケンジという人の「グミ・チョコレート・パイン」という本を読んだ。当時手にした青春ものの小説で、印象に残っているひとつ。印象には残っているけれどストーリは全く覚えていない。たしか「若かりし頃の無敵感」というような描写があって、それが強烈に頭に残って、特徴的なタイトルと共に引っかかっている。

若いころは無敵である。
何でもできると思っているし、広大な夢が広がっていて、大小あれど、本質的に実際そうである。努力の方向性と、その量とをはかり違えなければ。

大人になるにつれ、無敵でない自分を知った。

何者かにはなれないのではないかと疑いはじめ、それでも少なからずの納得を得たく藻掻き、圧倒的努力の足りなさと怠惰な心に愛想をつかしそうになりながらも、コツコツと生きるうちに、疑いがおよその確信になってきた頃。何者とは、何者でもないと知り、それは漠然とした高揚感が生み出した幻想に過ぎないと知り、何者という名の着地点を見つけるのが大層上手になって、自分サイズの努力が板についてきたその頃。こういう一節に巡り合った。読書猿さんのブログからである。

 ヒトとしての成熟が、「自分はきっと何者にかなれるはず」と無根拠に信じていなければやってられない思春期を抜け出し、「自分は確かに何者にもなれないのだ」という事実を受け入れるところから始まるように(地に足の付いた努力はここから始まる)、書き手としての成熟は、「自分はいつかすばらしい何かを書く(書ける)はず」という妄執から覚め、「これはまったく満足のいくものではないが、私は今ここでこの文章を最後まで書くのだ」というところから始まる。

2015.05.04
もっとうまく書けるかもという妄執をやめれば速くうまく書ける
-遅筆癖を破壊する劇作家 北村想の教えより
https://readingmonkey.blog.fc2.com/blog-entry-759.html

これを読んで今一度。
すでに妄執から覚めてはいたけれど、また一度、自分を信じて一歩一歩進めるのだと背中を押され、まだまだ青春は終わらないと嬉しくなったことを思い出す。

秋みたいな春もいいよね。

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