人を育てるということ

大学院で生命科学を学んだ後、私は特許事務所に就職した。毎日膨大な量の業務をこなさねばならず、速さと正確さの両方を求められた。主な業務は特許文書の英文和訳だったが、急な案件や種類の異なる案件も抱えていた。同期は終電で帰宅し、土日も出勤していた。私は新婚ほやほやだったので、平日は何が何でも定時に退社したかったし、土日はなるべく仕事をしたくなかった。

会社にいる8時間の間に業務をすべてこなすにはどうすればよいか、日々試行錯誤を繰り返していた。無駄を省き、集中力を高め、一日の仕事の流れをイメージしてから仕事にのぞんでいた。いかに「合理的に」業務をこなすか、そればかり考えていた。

この生活は9ヶ月続いた。そのうちの約6ヶ月間は妊婦として過ごし、12月の終わりに出産を理由に退職した。退職後は特許翻訳の仕事を外注で受けていた。出産予定日の3週間前まで仕事をし、産後8週で復帰した。

生まれてしまえばなんとかなると思っていた育児は、それはそれは大変だった…。毎日毎日約2時間おきに赤ちゃんは泣く。

産院で習った通り、まずオムツを交換する。それから母乳を飲ませ、粉ミルクを作って飲ませ、ゲップをさせ、寝かしつける。その間にまたオムツを汚すこともある。さっきかえたばかりなのに…と思いつつまたオムツを交換する。そーっとベビーベッドにおろすと目を覚まして泣く。何度かチャレンジしてようやく成功する。飲み終わった哺乳瓶を洗い、煮沸消毒し、私も少し眠る…の繰り返しだった。

育児はこんな調子、でも仕事はしなければならない…。睡眠不足は翻訳の質に影響する。私はなんとか自分の睡眠時間を確保したかったし、赤ちゃんにぐっすり眠って欲しかった。長男がようやくまとまった時間眠ってくれるようになった頃、次男が生まれた。

目の前にいる赤ちゃんたちとの時間を心から楽しむことができなかった。私の心の中にはいつでも翻訳の〆切という焦りがあった。

私の体力にも限界があり、2人を保育園に預ける決断をした。あと2週間で入園という矢先、諸々のストレスが重なって私は顔面神経麻痺を発症した。

この頃の私は、話し相手も相談相手もいなかった。唯一の話し相手は夫と義父母。みんな優しかったけれど、私が身を削って仕事をしていることにいつも悲しそうだった。今のようにSNSも発達していなくて、親しい友人とは主に手紙でやりとりをしていた。私は同級生達よりも早く結婚したので、20代後半だった当時、友人達は仕事に邁進していた時期だった。

だから一人で色々なことを解決していかなければならなかった。ようやくこうして当時を振り返り、文字にすることによって自分自身の気持ちを確認できるようになった。

その後三男も生まれ、私は在宅での翻訳を辞めることにした。三男が生まれてから幼稚園に通うまでの間、私は専業主婦になった。

この頃の一番の思い出は、子供たちと一緒にサッカーを楽しんだことだった。特に夏休み中は近くの公園で毎日子供たちとサッカーをした。心配なことはそんなになくて、その日その日を楽しんでいた。

…あれから10年が経とうとしている。

長男の生きる原動力はサッカー観戦、次男が大好きで大好きでたまらないことはサッカー、そして三男は個性豊かな兄達と日々仲良く過ごしている。

人を育てるということ、人と関わるということ、これに勝る深い喜びはないのかもしれない。

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