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100年前に実在したヤバすぎるブラック職業

飲食、介護、運送、IT、保育士…。

激務なのに薄給で精神的にも追い詰められるという、ブラック職種の告発が後を絶ちません。

ブラック企業やブラック職種のようなものは、特定の条件が揃えば簡単に出現するものだと思うのですが、人口ピラミッドと産業構造の変化にも関わらず、高度経済成長時代の成功モデルから抜け出せない日本の構造的な問題が根本にある気がします。

 では100年前のブラック職種はどのようなものだったのでしょうか。

 

1. 運河掘り 

現在は海上交通の要所として世界の物流を支えるパナマ運河ですが、その採掘は過酷を極めたそうです。

フランスがパナマ運河の建設を開始したのは1880年で、あまりの難工事で資金繰りが悪化し、1889年に開発会社が倒産。その後アメリカが開発を引き継ぎ、1904年から工事が開始され、1914年に開通しました。

その間、フランス時代で死者約2万人、アメリカ時代で死者約5,000人を出しました。

 その死亡者の多さは、重労働というよりはマラリアや黄熱病が原因。運河を掘るために湿地帯を開発していくのですが、そこが病原菌を媒介する蚊の大繁殖地帯だったのです。

1900年代初頭に、労働者の死亡数の多さの原因が蚊にあることを知った医師は、蚊の発生元を潰すなどして蚊の撲滅に力を尽くし、フランス時代から比較すると死亡者は抑えられたのでした。

それにしても、いかに給料が良くても死亡率が高い職場など御免被りたいものです。

 

2. 馬の小便集め

1930年代まで、「妊娠した牝馬の小便」を回収する職業がありました。

妊娠牝馬の小便にはエストロゲンという成分が含まれており、更年期障害を和らげる薬を作ることができたのです。

回収人は馬小屋に詰めて待機し、牝馬がおしっこしそうになったら急いで駆けつけ尿を集める。牝馬がおしっこをするという合図やそれらしい兆候はないので、完全に回収人の勘と経験がものを言う世界です。

そうやって汗だくになりながら回収された尿ですが、数リットルの尿からわずかに数ミリグラムしか採取できなかったので、充分な稼ぎを得るにはとにかく長時間労働をしなくてはいけなかったのです。

馬に蹴られる危険性もあるし、夏は暑いし冬は寒い。ブラックですね。

 
3. トンネル監視人

日本でもかつては踏切に踏切小屋があって、職員が手で踏切の開閉を行っていました。発展途上国の国では現在でも見られる光景です。

同じように、かつては鉄道のトンネルの監視も職員によって行われていました。技術も未発達で鉄道トンネルは現在ほど安全ではなかったので、軌道が正常に保たれているか、トンネル崩壊の危険性はないかなどの安全管理を行っていたのです。

鉄道会社やトンネルによって職務は異なったようですが、例えばニューヨーク州ハンブルグトンネルでは、スタッフがちゃんと出社したことを証明する打刻を行うために、まずは片方の小屋に打刻し、次に山を登ってもう片方の小屋に行き打刻し、最後はトンネルを通って元の小屋に戻るということを毎日やらなければなりませんでした。

シカゴ&ノースウェスタン鉄道会社の路線では、列車の接近を知らせる汽笛が鳴るとトンネル監視人は急いで小屋から出てトンネルを走って安全点検をし、落下物や軌道の確認をしなければなりませんでした。もし不備があると、列車は脱線してトンネルが崩壊したり、間違った軌道に乗って列車同士の衝突を招くなど、大惨事に繋がる恐れもあったのです。

責任は重大、しかもキツくて命の危険性もあるブラックな職種です。

 

4. ファイア・ノッカー

 Photo from Dusty Old Thing

 ファイア・ノッカーとは、走り終えて駐機基地に戻った蒸気機関車の火室の火を消し、燃料を取り出して冷却し、綺麗に掃除をして乾燥させ、再び燃料を補給するという仕事。

シンプルな仕事ですが、慣れていないとかなり危険で、操作を誤れば暴発を起こしたり火傷をしたりして、命を落とす危険性もありました。実際かなり火傷の事故は多かったようですが、当時はその事件の多くは「従業員側のミス」とされて鉄道会社は安全対策を施さないケースがほとんどでした。

 1900年代初頭は「安全な労働環境の整備」などは夢物語で、労働者は危険な環境で働かざるを得なかったのです。

 

5. ブレーカー・ボーイ

Photo from: George Bretz

  ブレーカー・ボーイは炭鉱で働く8歳から12歳の少年のことで、その小さな体を活かして、狭い部分の石や石炭を砕いたり、曲がりくねった穴を這って外に持ち出すのが仕事です。

その労働条件は過酷の一言で、1日12時間から14時間ほどを暗い炭鉱の中で働き、石炭の粉を四六時中吸い続けるため肺に石炭が溜まり、高い確率で塵肺になりました。また、落下して骨を負ったり、機械に体を挟んで負傷したりして、「切り傷、擦り傷、骨折で済んだら運が良い」とまで言われ、中には体が変形するほどの重症を負い、ブレーカー・ボーイを辞めてからも傷が残り続け一生治らない者もいました。

少年の労働者なので当然給料は低い。

怖いというか、二度とこのような職業はあってはいけません。

 

6. 灯台監視人

Photo from National Archives of Australia

 灯台監視人は特に命の危険が伴うわけではありませんが、とにかく孤独で退屈な仕事でした。灯台は場合によっては孤島に設置されているため、灯台監視人は妻や子どもを伴って移り住む必要がありました。

仕事は夜間。夕暮れ前に給油代に火を灯し、火が消えないか一晩中監視します。また、正常に船が航行しているかを監視するのも業務でした。

晴れの日ならそんなに難儀ではありませんが、豪雨や嵐の火は消えないようにするには苦労したでしょうし、一晩中嵐の中で難破船がないか探すのは根気が必要だったでしょう。

孤島の監視人と家族はたまに食料や灯油を買いに船で町まで繰り出しますが、人との交流はそれくらいで、とにかく孤独な暮らしでした。

山奥に庵を結ぶ暮らしを望むならともかく、とにかく単調で孤独な仕事もキツイですよね。

 

7. 採石運搬人

Photo From: Michigan Tech Archives

仕事は鉱山の穴の中から採石した石をトロッコに乗せて人力で地上まで運搬する。以上です。

これがいかに重労働でしかもヤバい仕事かは容易に想像がつくのですが、技術も知識も必要なく、必要なのは力だけという100年前の超底辺労働がこれでした。

それがゆえに、安い賃金で長時間こき使われ、彼らもそれしかできないので会社に足元を見られ続けていました。1900年初頭の段階で運搬は機械で対応できるようになっていたにも関わらず、10年以上も多くの銅鉱山は運搬人を使い続けていました。

1910年の労働者災害補償保険委員会の調査によると、銅鉱山でおよそ1463名の運搬人が負傷し、その内の11名は死亡事件だったのにも関わらず、死亡報告がまったくなされていませんでした。

  

まとめ

100年前はひどかったんだな、今の自分は恵まれている、と安心するでなく、実際に現在も似たような状況に置かれた人たちが大勢いることを考えないといけません。

日本ではある程度は労災は整ってはいるものの、派遣労働者や非正規雇用の保護はあってないようなもんだし、賃金の格差は開くばかりで特に若者の生活水準は酷いものです。

自らの市場価値を上げよりよい生活のためのに努力する必要はあると思いますけど、そのスタートラインにすら立ててない人が大勢いる現実を直視しないといけないと思います。

 

参考サイト 

"10 Jobs From The Early 1900s That Totally Sucked" LISTVERSE

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