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大人の階段、コーヒーがもたらした愛

ブラックコーヒーが苦手だった。コーヒーといえば、砂糖と牛乳たっぷりのコーヒー牛乳とか、甘いコーヒーゼリーとかで、コーヒーというよりコーヒー風味を楽しむ程度のものだった。ブラックコーヒーを飲めるようになったら格好いいな、という謎の憧れがあったものの、飲めないものは飲めない。

コーヒーが飲めないまま大人になった私だが、二十三歳の時に転機が訪れる。当時付き合っていた男が無類のコーヒー好きだったのである。職場にも自分専用のドリッパーと手動ミルを置いていて、いつでも挽きたてコーヒーを飲みたがる男だった。同棲していたわけでもないのに週3日以上泊まりに来ていた彼は、もちろん私のアパートでもコーヒーを出すことを求めた。ことあるごとに「コーヒーないの?」と言われるので、適当な紙のドリップパックのコーヒーを常備していた。お湯で溶かすタイプのインスタントコーヒーでないだけマシだろうと、文句があるならば勝手に自分でコーヒーを淹れれば良いと思っていた。

しかし当時は彼のことが好きだったので、近所に自家焙煎のコーヒー豆を売っている店を見つけてしまったが最後、ホイホイと彼のために美味しいコーヒーでも淹れてやろうとお店に入ってしまったのである。「スペシャルティコーヒーの店」と店の前に旗が立っていて、なんだが特別そうなお店だった。

店は暗く、あまり流行っていなさそうな雰囲気だったが、扉を開けるとコーヒーの香りに包まれて心地よかった。店主以外、誰もいなかった。店主は背が高く、四十代半ばごろの背の高い細身の男性で、日焼けしていて、ハードボイルドに気が抜けたような人だった。カウンターの中にいて、私が入店すると優しげな微笑みで「いらっしゃいませ」と言ったような気がする。

私は「コーヒーについては何も知らないので、どう豆を選んだら良いかわからない」と素直に相談した。すると店主は、ちょっと待ってねと目の前でコーヒー豆を挽き、一杯分のコーヒーをハンドドリップで淹れてくれたのである。グラインダーで豆を挽く音と共にコーヒーの香ばしい香りが店にフワリと舞って、ペーパーフィルターに口の細いポットでお湯を注ぎ、コーヒー豆の粉がポコポコとハンバーグみたいに盛り上がって、一滴ずつガラスのサーバーにコーヒーが落ちていく。

「ちょっと飲んでみて」と言われて、ブラックのままを差し出されて、少し躊躇した私ではあったが、一口飲んでみて瞳孔が開くくらい驚いた。ブラックなのに美味しいのだ。これまで飲んできたコーヒーはなんだったのかと思うほどに、スッキリ美味しい。私は驚いた顔のまま「美味しいです」と間抜けに答えた。夏の日、かっらからに喉が渇いた時に飲んだ麦茶みたいに体に浸透するような美味しさがあった。

「これはね、浅煎りですごく飲みやすいんだよ」と、コーヒーの焙煎には浅煎りから深煎りがあることを教わった。その後、中煎り、深煎りを一杯ずつ試飲させてもらったけれども、これまで飲んだコーヒーとは違って、苦味に旨みというのか美味しさを感じられて、嫌味なく飲めた。

「ブラックコーヒーが美味しく感じられたのは初めてです」と店主に感動を伝えると店主は喜んで、暇だったのか私に美味しいコーヒーの淹れ方をレクチャーしてくれた。それはもう大変丁寧で、そのレクチャーだけでお金を払うべきなんではないかと思うほどで、私は一時間近く店にいたような記憶がある。お店を出る時、コーヒーのスターターキット、総額一万円近くを購入したので感謝の気持ちは伝わったとは思う。むしろそれが狙いだったのかもしれないが、私は初めて美味しいコーヒーと出会った感動で、満足度は高かった。

ペーパードリップで美味しいコーヒーを淹れるには練習が必要で、少しずつ上達していくと教わった。私はハリオのV60、円錐型のペーパードリップで淹れる方法を教わった。ドリップの穴が一つのタイプである。

沸騰したお湯を口の細いコーヒーポットに注ぎ、お湯の温度を90度程に調整。ペーパーフィルターをセットしたドリッパーにお湯を注いで、ドリッパーとコーヒーサーバーを温める。コーヒーサーバーに溜まったお湯は捨てる。分量を測って挽いた豆を湿ったペーパーフィルターにセットし、挽いた豆の粉のど真ん中にお湯を1滴ずつ垂らす。点滴みたいに1滴ずつ垂らすので、コーヒーポットを支える腕が痛くなる。焙煎したて、新鮮な豆の場合はお湯を垂らしていくと、モコモコと盛り上がってハンバーグみたいな土手ができるらしい。土手ができたら、お湯を細くチョロチョロと落としてく。ハンバーグの土手を決壊させてはいけない。

大切なのは、お湯を入れる量だ。1杯分の豆には、コーヒーサーバーのメモリにある1杯分のお湯の量以上を入れてはいけない。お湯を投入している時は、豆のモコモコを常に維持して、1杯分のコーヒーがサーバーに入った瞬間にドリッパーを外し、ドリッパーに残されたお湯(コーヒー)は捨てなければならない。ドリッパーに残ったコーヒーは雑味だそうだ。私がこれまで苦手だったコーヒーの鼻の奥にツンとくる嫌味ったらしい苦味は、雑味だったのであろう。

彼氏に美味しいコーヒーを飲ませてあげたい。

ささやかな愛情から始まったコーヒーの道だったが、結局は自分がハマって自分が美味しいコーヒーを飲みたいから彼にコーヒーを淹れていた気がする。自分が楽しくて淹れるコーヒーは、断然美味しい。自分が美味しいと思うものを好きな人に提供する喜びも、よくわからない物を提供するより遥かに大きいだろう。

あの時あのスペシャルティコーヒーの店での感動がなければ、ブラックコーヒーの美味しさを知ることもなく、自分でハンドドリップする楽しさも知ることはなかった。それは店主のコーヒーに対する愛情がもたらした、私にとっての小さな奇跡だった。ブラックコーヒーを飲めるようになった私は大人の階段を登ったような気になった。それは、本当に美味しい感動の先にあって、自分の足で見つけた喜びなのだ。

ふと、あの店を調べてみた。初めて来店してから、もう十年も経つ。引っ越してから八年以上が経って、一度も行っていない。巣鴨のハニービーンズ。まだお店があってホッとして、Googleの評価も高かった。

久しぶりにネットで注文してみようと思った、土曜日の午前中であった。

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