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短編小説『咲きもせず、散りもせず』

できるだけ明るく、元気よく。何もなかったかのように。
そう心がけて、隣を歩く幼なじみに声をかけた。札幌駅から大通りにかけてのこの道は人が多い。しかもいまは一番混む週末の昼下がり。信号の表示に合わせて人ごみがうごめく。
「花なんてバイトで年中見ているけれど、やっぱ俺この季節好きだわ。桜も梅も一気に咲いて風情なんてないけどさ」
彼女はうつむいたままだ。
大学にいる間はうっすらとメイクして桃色の口紅をしていたのに、いまはすっぴんだ。まあ、あどけない感じで高校時代を思い出すから懐かしいのだけれど。
「ごめんな、外に連れ出しちゃって。その……ずっと部屋で泣いているんじゃないかと思ってさ」
「泣きすぎてもう涙が出ない」
「そっか」
彼女の鼻は赤くすりむいている。五月の日射しを受けても、いつもは輝く彼女の黒髪が沈んだ色合いに見えた。
黒く染めた絹糸の束のような艶やかな髪。あの男は何度も撫でていたんだろうな。甘ったるい言葉を投げかけて。
『私、フラレちゃった』
一か月前に届いた彼女からのメールを見て、俺はスマホを落としそうになった。なんて返信したかは覚えていない。ここ数日、頻繁にできるだけていねいに連絡を取っていた。
でも、もっと心の深いところに届く温かな励ましをしたい。ジーンズの尻ポケットに忍ばせた紙片を手で確かめながら俺は歩いた。
「この通りの先にうまいケーキ屋があるんだよ。俺がおごってやるから腹いっぱい食えよ」
しかし、彼女は通りを見つめて表情をこわばらせた。俺の腕を引っ張る。
「……ねえ、あの桜並木は通らないで」
「お、おう。わかった。でも、おまえ花好きじゃなかったか」
向きを変えようとしたとき、風が吹いた。人々が各々の髪やスプリングコートを押さえる。やや遅れて、通りの向こうから八重桜の花弁が風に運ばれてきた。
「う、うう……」
傍らにいる彼女の目から涙がこぼれている。あふれる涙をぬぐおうともせず、桜を眺めている。
「どうした!? ホコリでも入ったか」
「ちがう。去年約束していたの……いっしょに桜を見ようって。それなのに、なんであいつ他に好きな人できたの。私と桜、見れないの、なんで。なんで……」
泣くな、とはいいたくない。でも泣いてほしくない。いま、彼女の心はつぶれて形を失いかけているだろう。
俺たちをかき分けて人が歩いていく。もう泣き顔は見せたくないのかのように彼女はうつむいた。
悔しい。俺はおまえと五年もいっしょにいたのに、こんなにも思われなかった。さっと現れてこいつの心を奪っていって、立ち去って。どうやったら、そんなことできるんだよ。
俺には、俺にできることは……。
ゆっくりと彼女を抱きよせた。強く抱きしめてもいいかわからない。まだそんなことをしてはいけないような気がする。
「こういうときなんていったらわからないな。俺、失恋したことないからさ」
「人が失恋したのに自慢しないでよ」
「自慢じゃねえよ」
彼女の耳にささやいた。この言葉は他のだれにも聞かせたくない。
「まだ俺の恋は終っていない。ずっとおまえだけが好きだったからさ」
いくつもの季節を越えて秘めてきた確かな想い。ジーンズの尻ポケットから俺は紙片を取り出した。彼女の頬に押しつける。
「ほら、やるよ」
はじめて俺がつくったしおりだった。講義の合間にキャンパスの原っぱで花を摘んだ。
三つ葉にシロツメクサ。花選びがよくなかったのか、色がうまく出ずに黄ばんでしまった。
「おまえ、押し花作るの好きだったもんな。辞書に挟んで変な色のシミ作って先生に怒られてまでさ」
俺が花屋でバイトをしているのもおまえの影響だ。花々の香りに包まれると、おまえが寄り添っているような気がした。昔からおまえは俺に笑ってくれた。でも、おまえがたったひとりに向ける笑顔を、俺はまだ知らない。
花の影に、俺は幾度となく幻の頬笑みを見ていた。
両手でしおりを持つ彼女の手に、自分の手をかさねた。彼女の手は思ったよりも温かかった。
「その花も見るのいやか」
「いやじゃない……いやじゃないけど、まだあいつが忘れられなくて……忘れたいのに」
「そうだよな。人の気持ちなんてそう簡単に動かないよな。俺だって……」
恋い慕う気持ちを何度捨てようとしたか。俺はけちで臆病だった。告白もせず、振り払うこともせず、おまえへの想いを心のなかでいじくっていた。
咲きもせず、散りもせず。この恋の花がどうなるかはわからない。
いま、長いつぼみの時を経て、ようやくほころんだばかりなのだから。

【了】

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