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振り返れば一本道 ~アートディレクター荒井耕治氏インタビュー(第3回)

アートディレクター荒井耕治さんのインタビュー第3回です。(全4回)
大きな仕事がしたくて有名制作会社に転職し、メジャークライアントのサブ担当からアートディレクターに。(第2回

今回は、その間にあった一番の転機から、独立して順調にいっていた時期のことをうかがいます。

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荒井耕治(あらい・こうじ)
1953年茨城県大洗町生まれ。工業高校卒業後、電気メーカーサービスセンターに入社、退社。インテリアデザイン学校を卒業。バンド活動を経てデザイン会社入社。営業からデザイナーになり、2度目の転社で1979年にT.I.M.E.に入社。1991年4月 T.I.M.E.より独立し、有限会社アライ事務所を設立、広告の企画制作、デザイン事業を開始。 2000年5月 社名を有限会社アライブに変更、広告の企画制作の他にWEBの企画制作も始め、デザイン事業を継続、現在に至る。
読売広告大賞 部門別最優秀賞他受賞多数。
www.hi-alive.com

アメリカ行が僕の転機


---- アメリカにいらしたのはいつ頃だったのですか?

アシスタントとして仕事を始めてから2年くらい経った時ですね。版下ばかりの作業に追われ「ここでこのままやっていて、アートディレクターとかをやれんのかな?」と疑問になって、アメリカに行っちゃったんですよ。3ヶ月。27歳の時です。

ちょうど叔母さんがアメリカにいたので、そのつてを頼って、サンフランシスコとロスアンジェルスに滞在しました。当時、アンディ・ウォーホルが好きで、そういうアートの世界を育てたアメリカってどんなものか、と思って。それと本場のギターも欲しくて(笑)

やはり向こうの文化に触れたり、道を歩けば看板、マーケットにいればパッケージなど、いろんなところからデザインが眼に入ってくる。色んなものが。そういうのを吸収したというか刺激を受けたというのもありますが、一番変わったのはメンタルなんですよね。

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当時、アメリカで撮影した写真

当時の自分はもじもじくんで、アシスタントという立場もあってか、「これいいでしょ?」と訊かれても「はい」としか言えなかった。それがアメリカに行って、イエス・ノーが言えるようになった、意思表示がはっきりできるようになりました。だから、僕の転機なんですよ、ここが。

---- アメリカで仕事をしたらそうなったというならわかり易いですけど、仕事をしたわけじゃないけど、イエス・ノーを言えるようになった理由は何なのですか?

多分ですね、会う人会う人、初めて会った時に、みんな自分のことを話すんですよね。家族のこととか。そういうあけっぴろげで、オープンにして人と付き合う、「私はね、私はね」とアピールするというのが肌でわかったんですよね。それから自分を分かってもらうにはアピールしなきゃいけないというのが段々わかってきました。それが基本中の基本なのだなと。

それから「これ俺が作ったんだ」と見せてアピールするようになったんです。アメリカから帰ってきたら、それが身についちゃってたから、みんな驚いちゃったんですよ。一目置かれるようになって、「荒井くん、これどう思う?」と訊かれたら、「ちょっと違うと思うんですよね」と言えるようになって(笑)

---- 「いいでしょ?」ではなくて、「どう思う?」と訊かれるようになったのですね。

そうです。ここが僕の転機ですよ。

こっちも自信持っているから、「こうじゃないですかね」というようなことを言える人間に変わったわけです。それと同時にどんどん任せてもらえるようになりました。

それで小田急電鉄さんの仕事からアートディレクターとしてチームの柱になったので、メインの代理店さんからはネスレさんの仕事もやってたし、他にも細かいものを出されるとやってましたね。他の代理店さんから来るのもあるし、クライント直もありました。社長のSさんを通さなくて仕事が来るような感じになってました。

そうやって任せられた仕事をちゃんと返せていたからどんどん伸びていけたのだと思います。それが返せなかったら、口ばっかりで「なんだ、お前」で終わっちゃうじゃないですか(笑)

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T.I.M.E. 時代に制作したポスターなど

一人が好きで独立へ

そして、T.I.M.E.で12年半やって、役員になりそうな気配を感じたんですよね。でも、役員に魅力を感じられなくて独立を考えました。

---- 役員になりそうと感じる前から独立しようかなという気持ちはあったのですね?

それはもう、最初からというか小さい時からです。一人が好きで、みんなでつるむのは好きじゃなかった。また、結構シビアな子供で、どうやって生きていくんだろうと当時から考えていました。それで一人で生きていける仕事ということでデザイナーというのはアリだったんですよね。

---- バンドも集団ですし、かなり密接な人間関係だと思いますが、それは大丈夫だったのですか?

それは多分、音楽という共通のものがあったからだと思います。仲間といつも一緒にいたいという感じはありませんでした。

それで、T.I.M.E.という会社では、小田急電鉄さんの仕事が僕の仕事の7割くらいを占めていたかな?遊園地の仕事以外に、いろんな仕事があったんで。他はメインの代理店さん以外にも幾つもの代理店さんの仕事をしてました。

T.I.M.E.という会社は、会社はあるけれども、チームごとに動いている感じで。毎週だったか、月一だったか全体の打ち合わせがあって、3チームで「〇〇チームは今月幾らくらい行きそう?」なんて感じでやってました。

任せられた仕事をちゃんと返している間にどんどん自信がついて、やる仕事やる仕事どんどん成果が出ていったから、そのうちに段々独立したいという気持ちになった頃は、相談しなくてもアイデアを自分で固められるなっていう自信がついてました。

それで37歳の時に12年半いたT.I.M.E.から独立しました。


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独立当初の社名「アライ事務所」を 2000年に「alive(アライブ)」に変更


順調だったところにリーマンショックが


---- 独立された時は小田急電鉄さんの仕事がメインだったのですか?

いいえ、小田急電鉄さんの仕事はT.I.M.E.のディレクションだけをする形、T.I.M.E.からディレクション料を貰うという形でした。ひとつの代理店さんのJSW日本製鋼所さんは丸々こちらが営業権で、メインだった代理店さんのELMOさんも丸々こちらでした。その三つが柱になって動き始めました。

小田急電鉄さんと繋がりがあったので、小田急相模原にホテルができた時は広告ツールをほぼ全部僕がやりました。あと、カレンダーの仕事とか。新百合ヶ丘と代々木上原にある駅ビルのacordeのロゴタイプも僕なんですよ。

JSWさんは独立してから16年間毎回賞を取ってました。ですから、JSWさんも僕の中では存在が大きいんですよね。


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JSWさんの新聞広告。16年間毎回賞を取った。写真はその一部


そして、ひとつの代理店さんの案件を通して別会社の方と仲良くなって、その人からも結構仕事を頂きました。ですから、人脈というか縁ですよね。那須塩原のホテルのロゴマークからトータルの仕事とかいろんな仕事をしました。

そうして順調に来ていたところに、いきなりリーマンショックだったんですよ。

2001年の9.11の時も、新聞15段カラーのシリーズが決まっていたのがなくなったりはしました。そこの社員さんが犠牲になられて。

でも、なんと言っても大きかったのはリーマンショックで、あれでほとんどの仕事がなくなってしまいました。パンフレットとか販促物をやっていれば、少しは動いたんでしょうけど、そういうのを全然やっていなかったから本当に仕事がなくなりました。


続きはこちら >>> 【part4

関連リンク: 有限会社アライブ http://www.hi-alive.com
※写真は全て荒井耕治さん提供

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