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【感想文】鯉魚/岡本かの子

『落語マイスターが鯉魚を読むと……』

▼本書のあらすじ

寺男てらおとこの昭青年が鯉に残飯をやろうと川に行ったら落ち延びて腹ペコ状態の早百合姫さゆりひめと遭遇してこっそり助けてイイ感じの関係になったけどそれが寺の衆にバレて禅問答バトルをやるハメになってしまい昭青年が「鯉魚」一点張りの回答をしてたらそのまま悟りを開いてエライ人になったその一方で早百合姫はダンサーに転身した、的な話。

▼読書感想文 ~本書の落語的側面について~

本書『鯉魚りぎょ』は仏教的逸話としても読めるし、恋愛談としても読めるし、落語としても読めるため、一粒で三度おいしい小説だといえる。そこで今回、落語マイスターの資格を持つこの私が、本書を落語の観点で読んだ場合の「落語っぽさ」を説明する。

◎筆致の落語っぽさ:
本文の筆致は「ですます調」が用いられており、まるで第三者を意識した「語り」のようである。本書を音読すると分かるが、噺家が客に向けて「過去にこんな逸話があったんですよ」といった調子が窺える。

◎あらすじの落語っぽさ:
冒頭で述べた「▼あらすじ」の通り、この話は起承転結がくっきり明確でありこれも落語の特徴である。ただ、この話を落語として読んだ場合、起承転結の「結」部分である「サゲ(オチ)」に該当する表記が一見して分かりにくい。で、結論から言うとサゲは作中後半の以下である。

<<悟るということは、生命の遍満性、流通性を体証したことで、一匹の鯉魚にも天地の全理が含まれるのを知ると同時に、恋愛のみが全人生でなく、そういう一部に分外に滞(とどま)るべきでないとも知ることです。>>

上記は、一般に用いられる落語のサゲ(笑いに繋がる語り)とは異なり、教訓・格言めいたことが語られている。こういったケースはいわゆる「人情モノ」の落語のサゲに多く、例えば、『一文惜しみ』という演題なんかだと、「強欲は無欲に似たり、一文惜しみの百両損というお噺でございます」と言って締めくくられる。それを踏まえて本書の上記引用をあらためて見ると、噺家が「恋愛だけが人生じゃない、一匹の鯉にも真理あり。以上、『鯉魚』というお噺でございます」と言って緞帳どんちょうを下ろす感じがしないだろうか。

◎禅問答のくだりの落語っぽさ:
古典落語には仏門に入った男が四苦八苦する話がそこそこあって、『鯉魚』を読んで即座に思い浮かぶのは落語『蒟蒻問答こんにゃくもんどう』である。『鯉魚』があらゆる問いかけに「鯉魚、鯉魚、鯉魚」と回答して相手をビビらせるのに対し、『蒟蒻問答』の場合は「有無の二道は禅家悟道にしていずれが理なるやいずれが非なるや、これいかに?」という意味不明な問いかけに、バカみたいなジェスチャーで応戦して運よく相手をビビらせる笑い話である。で、『蒟蒻問答』だけだと根拠が弱い気がするのでもう一つだけ『鯉魚』に似てる演題を紹介するけど、『御慶ぎょけい』という古典落語がある。この噺のクライマックスに、宝クジで大金を手にした男が「御慶」というおめでたい言葉を知って嬉しくなって、訳も分からぬままに「御慶、御慶、御慶」と連呼しまくって知り合いが軒並み面食らってしまう、という場面があり、これって『鯉魚』における「鯉魚、鯉魚、鯉魚」となんだか似てる気がする。

といったことを考えながら、ボーっとしてたら「なんでもかんでも落語にこじつけたらアカンぜ……」という桂吉朝の声が聞こえてきた。

以上

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