【小説】鷹匠五郎深山隠れ(前編)
私は鷹匠を生業として日々生活を送っています。
私の住む山形県の泥沢という集落は、農作物を育てるための耕地面積も無ければ、日照時間も短く、作物栽培に不向きな土地ですから専ら「猟」によって生計を立てる他はありません。そのため、私は鷹を使って雪山に棲む動物を捕らえ、その肉や毛皮を売ることで収入を得ています。しかしそれは私一人がやっと生活していけるだけの微々たる収入にしかならず、日々貧苦にあえいでいます。労力に比して薄利な商売である鷹匠。にも関わらずなぜ私がその道に進んだのか、その経緯を少しご説明させて頂きます。
もともと私は信州信濃国に生を受け、両親と共につつがなく暮らしておりました。また、この地では鷹による鳥や兎の猟も盛でして、例えば諏訪大社では、古くから狩猟神事、動物供犠が行なわれておりました。私の家系は代々鷹匠をしておりましたから、先代から父の代に至るまで松本藩の藩主に仕える鷹師として奉職してまいりました。殿様は、鷹を鑑賞愛玩のためではなく「鷹狩り」を目的としておりましたから、父は殿様の鷹を預かって鷹狩りを行えるよう調教・訓練を施したうえで、殿様に御献上してその褒美を頂戴していたのです。当然ながら私も父の後継者として鷹匠になるよう厳しくしつけられました。また、鷹狩りを行うために鷹を調教する技法を「放鷹術」と言うのですが、これには多くの流派があり、私が住んでいた信州では「諏訪流放鷹術」が一大勢力を占めておりました。私の家系も元々は諏訪流出身であり鷹を仕込む際は諏訪流の教えに従い調教していたのですが、父の代からその脈は途切れてしまいます。あろうことか、父は諏訪流の一門から去り、独立の後に「信州慈眼流」という流派を新たに興したのです。
安政7年の当時、日本は激動の時代を迎えていました。欧米列強が徳川幕府を脅かし開国を迫られる中で、国内諸藩においても意見や主張が対立紛糾し、混乱した武家社会は崩壊の一途を辿っていたのです。この世相を目の当たりにした父はこう考えました。──── 今、日本は生まれ変わろうとしている。その影響は我々鷹匠の職にも及ぶであろう。徳川公の息がかかった諏訪流放鷹術も例外にあらず、変化に応じていかなければならぬ。しかし、古来からの伝承に重きを置く諏訪流はそれに耐えられるはずはない。しからば、この俺が新たな流派を作り、機に転じようではないか。こうして父は信州慈眼流放鷹術の開祖となったのです。
元服を迎えた15歳当時の私といえばまだまだ半人前の鷹匠でしたが、それゆえに必死になって慈眼流の真髄を体得せんと修行に修行を積み重ねました。ここで、非常に高度な技術を要する信州慈眼流放鷹術、それがどういったものなのかご参考までにいくつかご紹介させて頂きます。まず、鷹を握拳の上に置いて安定させることを、諏訪流では「据え」と言いますが、信州慈眼流の場合はこれを「抱っこちゃん」と言います。また、鷹を腕に「据え」た状態から獲物目がけて空に投げ出すことを、諏訪流では「羽合わせ」と言いますが、信州慈眼流の場合はこれを「ワクワクバード」と呼べ、そう父は私に指導しました。このように放鷹術における呼称ひとつ取ってみましても、従来の流派と異なりこの他にも、仏恥義理、魔苦怒奈流怒、超・抱っこちゃん、マッハ抱っこ、チキン野郎、チキチキボーン、ダイエーホークス、といった新たな放鷹術を発明したりと、父は全く独自の発想で諏訪流および他流派との徹底的な差別化を図りました。なお、私は今現在も父から教わった放鷹術を用いて狩りをしています。そうした来る新時代を見据えながら父と私は激しい研鑽を重ねていたそんな矢先、文久2年のことでした。父が死んだのです。
その日、父は丹精込めて仕立て上げた鷹の定吉を殿様に献上すべく、松本城へ登城しました。本丸御殿天守にていざ御献上の儀式が始まりますと、殿様の御意向により今回の御献上は振替をもって執り行われる運びとなりました。「振替」とは放鷹術の一種であり、二者間において一方が放った鷹をもう一方の拳に飛び移らせる、といった鷹を使ったキャッチボールのことです。警戒心の強い鷹が初めて目にする殿様の拳に果たして飛び移ることができるのか。父の調教の成果が試される場となりました。殿様は腕を地面と水平に伸ばし拳を握ります。拳の上に定吉の好物である獣肉が乗せられました。間髪入れず、父は助走をつけて殿様目がけて定吉を前方へ投げ出したのですが、この「助走をつけ」たことが仇となってしまいました。普段以上の力で投げ出された定吉は凄まじい勢いで空中を飛翔、ブレーキをかけることができず、その強靭な爪と握力で獣肉を引っ掴んだはずがなんと殿様の御顔を掴んでしまったのです。アイアンクローとでもいいましょうか、定吉の両脚爪によって固くホールドされた殿様の御顔は見る見るうちに血で染まっていきました。数人がかりでようやく爪を引きはがすと、殿様の御顔はずたずたに裂傷されていました。家来一同、真っ青な様相を呈しながらも応急処置をしようとしたそのとき、父は殿様に向かってこう言ったのです。「鷹なのに鷲づかみとはこれいかに。」と。定吉はピィと鳴いて空の彼方へ逃げ去っていきました。
文久の時代は今と違って死刑の種類は様々で、斬首、試し斬り、市中引き回し、磔刑、火あぶり、鋸挽き、等々の残酷な仕置きが罪人を待ち構えておりました。その死刑ラインナップ六選の内、父には「市中引き回しの刑」が適用されることになりました。罪状は「殿様顔面裂傷」および「鷲づかみコメント」の2件でした。それにしても父はなぜあのような発言をしたのでしょう。凍りついた場を和ませようとしたのでしょうか。だとして、なぜイケると思ったのでしょうか。昨今では、電車飛び込み自殺や台風による河川反乱等の惨事を目の当たりにしてテンションが上がる者が一定数おり、父もその類だったのかもしれませんが、真相は今に至っても依然として分かりません。刑の執行を迎えた当日、多くの見物人が松本城周辺に集まりました。私は悲嘆に暮れる母を家に残し、父の最期の姿をこの目に焼き付けんと見物人の中に混じって刑の執行が始まるのを固唾を呑んで見守っていました。ややあって執行人が現れて開口一番、今回は殿の強い御意向により刑の内容を少し変更することになったと発表しました。通常、「市中引き回しの刑」といえば、罪人は縄で縛られて馬に乗せられ、罪状が書かれた木の捨札と共に城の周りを一周し、牢屋敷に戻った後に処刑されるのですが、「今回はいつもと違って、馬と罪人を縄でつないだ状態で馬を全速力で走らせ、引きずられた罪人が死ぬまで城の周りを周回することになったからそのつもりで。」と執行人は告げました。殿様は相当にお怒りであったことが伺えます。見物人からはどよめきの声が湧きおこりました。あまりにむごたらしいではないか、それが徳川の威光を示す手段なのか、と大勢の人が思ったことでしょう。程なくして牢屋から父が現れました。
これから父はさらし者になるわけです。私の前に姿を見せた父、その表情たるや正視に耐えられるものではありません、思わず私は目を背けてしまいました。馬の胴体に荒縄が括られ、縄の先には父の両足が固く結び付けられると、息つく暇もなく騎乗した執行人が馬の横っ腹に鞭を一発入れると馬は嘶きながら全速力で駆け出しました。とうとう市中引き回しの刑が始まったのです。問答無用で馬に引きずられていく父の姿はさながらソフトビニール人形の体を為しておりました。そんなことを思ったのは私が混乱状態にあったからでしょう、すぐさま私は父の後を追いかけましたが、馬の速度に到底かなうはずもなく取り残されてしまいました。しかしどうだろう。これはまだ引き回し1周目だから再び父は姿を現すに違いない、父よ頼む、生き延びてくれ。私は微かな期待を込めてそう祈りました。その切実な願いが通じたのか二周目に突入、再び私の前にソフビ人形が現れました。つまり、父はまだ生きていたのです。私は胸をなでおろしましたが、生きている父を見るのはもうこれで最後かもしれないと思うとやはり悲しさがこみ上げてきます。父に一声かけてやらねば。そう決意した私は見物人をかきわけて、引きずられていく父に追いつこうと無我夢中で走り続け、とうとう追いつくことに成功したのですが、私に気づいた父がこう言いました。「五郎。おまえ、俺のことをソフビ人形みたいだなあと思ってんだろ?」と。心の内を見透かされた私は茫然としてその場に立ち尽くし、あっという間に父の姿は見えなくなりました。茫然自失の内、3周目が終わり、4周目も終わり、5周目に突入、ふたたび現れた父の姿は ────いやそれは父というよりも「平打ちストレート麺」と同様のシルエットでした。そういえば先程からラーメン屋の出店がやけに繁盛しています。父の姿を見て食欲をそそられたのでしょうか。いや今はそんな事を考えている状況ではない、私は必死になって父を追いかけました。引きずる馬もさすがに走り疲れたと見え、明らかにスピードが落ちていたため今度は容易に父に追いつくことができました。すると、私に気づいた父は懐から巻物を取り出して「五郎。この巻物には信州慈眼流放鷹術の秘伝中の秘伝が認めてある。俺はもうもたない。遺言だと思ってこれを受け取ってくれ。お前が後継者だ。」と、そう言って父は最後の力を振り絞り、私に向かって巻物を放り投げたところ、逃げたはずの定吉が突如現れて嘴で巻物を鮮やかに空中キャッチ、そのままピィと鳴いて東の空へ飛び去っていきました。
夕暮れ過ぎ、5周目の途中で絶命した父に最後の挨拶を済まし念仏を唱え、私は家に帰りました。秘伝中の秘伝とされている巻物強奪の件は非常に残念でしたが奪われた以上は仕方ありません。帰宅後、私は事の顛末を母に話しました。母は終始、苦虫を噛み潰したような表情で話を聞いておりましたが、聞き終えた後に「父ちゃんは一体どれぐらいの距離を引きずられたの?」と私に問いかけました。私は、5周目の途中で死んだよと返事をしたのですが、母はどうも納得がいかないらしく「具体的にそれは何メートルなの?」「走行距離の詳細は?」「どうしてそんなことも分からないの?」と問い詰めてきます。とはいえ、相変わらず私は5週目で死んだとしか返事ができなかったのですが、母は引きずられた実際の距離を知らないと実感が湧かないのでしょうか、まったく埒が明きません。私は、ちょっと調べてくると言い捨てて処刑現場に急行し、父が実際にどれくらいの距離を引きずられて死んだのか調査することにしたのです。
現場に到着した私は、次の様な考え方で距離を調べることにしました。まず、市中引き回しの刑を簡単に言うと「松本城の周囲を父が動き続ける営み」ですから、これを言い換えると「X-Y平面上に松本城を中心とした円Oがあり、そこからお濠を挟んだrメートル先で、円Oの円周を死ぬまで動く父P」ということになります。次に、動く父Pの出発地点Aと死亡地点Bに印をつけ、∠AOBを測定したところ170°でした。城とお濠の距離rは300メートルでした。つまり、「父が引きずり回された距離D」を求める計算式は「距離D=(引きずり周回数×松本城円周)+{松本城円周×(出発地点Aと死亡地点Bを結ぶ弧の中心角∠AOB÷松本城一周の角度)}」となりますから、これにさきほど測定した値を代入しますと、「D=(周回数5×松本城円周2πr)+{松本城円周2πr×(弧ABの中心角170°÷松本城一周の角360°)}」→「D=(5×2π×300)+{2π×300×(170/360)}」→「D=3000π+283.33π」→「D=3283.33π」となります。したがいまして、動く父Pは3283.33πメートル引きずられた末に死んだのです。早速、私は家に帰りこの算出結果を母に報告したところ「3283.33πメートルも引きずられるとはなんと無残な……」と残して母はその場に泣き崩れました。
不幸は父だけにとどまりませんでした。殿様の怒りは父を処刑しても収まらず、母と私に重追放の刑が言い渡されたのです。そうなってはもう二度と信濃国の地に足を踏みいれることはできません。母は私を連れて山形藩の泥沢に身をひそめました。住まいは打ち捨ててあった山小屋をリフォームしてどうにか寝場所だけは確保することができましたので、ここから心機一転、新たな生活が始まるわけですが父を失った以上、今後の暮らしは鷹匠として手に職を持つ私に懸かっています。とはいえ、父存命時分に行っていた、殿様や大名に仕えて報酬を得るといった従来のビジネスモデルを山形藩で継続することはできません。なぜといって、我々母子は犯罪者の家族として人別改帳に記録、つまりブラックリスト入りしているからです。そうした事情から私は猟によって捕らえた獣の肉や毛皮を売り収入を得ることにしたのですが、よくよく考えてみますと、この新たな鷹狩り事業スキームは父のように鷹匠ミッションが失敗しても殺されることはなく、自ら仕込んだ鷹をオンプレミスで用いて自分達が生活していけるだけの獲物を捕らえさえすればそれでコンプリートです。ということは、このプロジェクトにおいて狩りの失敗は生活のキャッシュフローに直結するとはいえ各ステークホルダーとのリレーションシップからなるベネフィット上のインパクトはプアーな薄っぺらさであるという点からしてそれ自体リスクヘッジと捉えることもできるし決してバジェットはリッチではないにせよ課せられたタスクをA.S.A.PでPDCAのサイクルをブンブン回してプライオリティ毎にインキュベーションしておけばアテンドしたクライアントからのレスポンスもスピーディーにキャッチアップできるしフィードバックとアライアンスとかもバチクソにがんばってアライアンスしたらCustomer Satisfactionの向上に繋がることになります。では早速、と狩りに出かけようとしたのですがある問題に気付きました。
肝心の商売道具・鷹を持っていなかったのです。
【後編へつづく】
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