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【感想文】雨蛙/志賀直哉

『「紙入れ」の枕に関するご提案』

各個人における「生きる価値」、その価値形成は人生の喜びに由来することもあれば、反対に、男女の間柄で生じた仕儀といった様な人生の苦悩に由来することもあり得る。
そうした可能性を本書『雨蛙』は示唆しているのではないか。なぜというに ——

—— ええ、色恋のお噂で一席ご機嫌をうかがいます。「町内で 知らぬは亭主 ばかりなり」ってな川柳がございますが、まあ、間の抜けた男ってえのは古今東西におるわけでして、その抜けた間を埋めるのがいわゆる「間男」でございますなァ。で、夫が自分の妻を称して「これはまた、なくてはならぬ カツオ節」なんてな歌もございまして、これなんかは妻のことを料理に不可欠なカツオ節に例えてるわけですから、間男は奥様を "だし" に使います。じつに道理ですなァ。でまあ、この『雨蛙』ってえ噺をひとつとってみましても、亭主ボンヤリお人好し・奥さん気弱で器量良しってな塩梅ですからややあって間男されてしまう。「富士の山ほど苦労はするが、もとは一夜の出来心」、男なんてなァ酒を飲みますってえと、アルコールが拍車を掛けて浮気了見がムラムラモクモクと湧き上がってまいります。それへさして奥さん、十二分に男を知った女ざかり、髪は鴉(からす)の濡れ羽色、三国一の富士額、目元ぱっちり、おちょぼ口、ってな見栄えですから男にしてみりゃたまらない。「はらまねえ 仕方があると 口説くなり」、口八丁手八丁で奥さんとうとう降参、間男と関係をもってしまいます。えー、昔から、間男の相場は七両二分と決まっておりますが...『やい、間男ォ!コンチキショウ!』『いやどうも、あいすみません、つい魔が差しちまって』『何ィ?たたっ斬られてェか、それとも間男の相場ァ、七両二分ってえからそいつで手打ちにしてやらァ!』『七両二分?そいつは高ぇ、二分に負からねえかなァ...』『こちとら商(あきない)じゃねえやィ!』...てなやりとりが江戸時分にあったかどうかはさておき、この噺『雨蛙』のボンヤリ亭主ときたら間男されたってえのに怒るわけでもない、直談判しにいくわけでもない。なんだか、ポーッとしている。で、その理由はというと <<せきを抱きすくめたいような気持になった。せきが堪らなく可愛い>>[新潮文庫,P.84] との言いぶんだそうで。なんだかこの亭主の料簡ってなァ、アタシにゃよく分かりませんがこれはまあ大方、間男を通して妻の中に女の価値を再発見したってところでしょう、まあひたすらハッピーな頭をした野郎です。で、この噺が最後にどうなるのかってえと夫婦そろって雨蛙を見てるだけ。ええ。これがサゲなんです。噺の表題通り『雨蛙』で終わると。で、このサゲ、一見わかりにくいんですが、これはまあ要するに「雨蛙」→「あまがえる」→「女(あま)帰る」ってな具合で、妻が夫の元に帰ってきた喜びを表してんですなァ。で、じつはこれに加えてあともう1つ含みがありまして「雨蛙」→「雨蛙(あまかわず)」→「女(あま)買わず」といった具合に、こんなに可愛い妻がいるんだから女郎買いなんてもっての外、といったところなんでしょうなァ。まあ、亭主の決意表明を地口でサゲたってわけなんですが、これからアタシが演る「紙入れ」って噺もそんな間の抜けた艶笑談でございまして... 『ちょいとォ、どうしたの新さんったらそわそわなんかしてさァ。すこしは落ち着いてお飲みなさいよう』『ええ、でもあの、もしかしたら旦那様がお帰りになるんじゃないか不安で不安で』

といったことを考えながら、私は新作落語『時ペヤング』の稽古に取り掛かった。

以上

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