【エッセイ】日々の含(第三回)
日々の含 (第三回)
『ミニマリストに執着します』
先程からこの場所にひとり佇んで意気消沈している。
だってそうだろう、今私が立っているこの地はJR新宿駅の東口、つまりアルタ前ときたら非常に多くの人で賑わっているのだから。この賑わいは今日が金曜の夜だから来たる土曜を祝して賑わうのではなく、まず新宿駅に先立って「賑わい」が存在するのであり、これ無くして日本随一の歓楽街は成立しないといってよい。周囲を見渡せば、サラリーマン、OL、学生さん、お医者さん、植木屋さん、駐在さん、亀さん、象さん、熊さん、八ッつぁん、甚兵衛はん、喜助はん、一八ッつぁん、杢兵衛じいさん、ご隠居、与太郎、喜瀬川花魁、旭日太夫、紅梅姐さんといった非常に雑多なものが新宿駅前をうごめいており、前方にそびえるアルタの超大型スクリーンには、今をときめく男性アイドルグループが映し出され、彼らはこれでもかとドーランを塗りたくった顔面で、そして全員が同じパートを大合唱しながら全員が同じ振り付けの踊りを踊るという団体芸を披露している、かと思えばアルタ前の車道には広告宣伝車がひっきりなしに走行、車に搭載された超大型スピーカーが発するおまじない「バニラ」は、道行く人々の鼓膜を次から次へと劈いては高層ビルの跳ね返りを受けて街全体をバニラの木霊で埋め尽くし、如何に我々が慄き平伏せど片時の安息すら与えないバニラ沙汰の無慈悲さたるや、さながら呪詛の如し怪音なり。
だからもういやだ、こんな駅前は。こんな街は。周囲のあらゆる雑多なものが煩わしく、これでは意気消沈する一方ではないか。もういい帰る。私は雑多なものでうごめく新宿駅前を後にして家に帰った。
自宅の扉を開けて山積みにされた古新聞を踏んづけて玄関から中に入り、廊下に転がっている大量の空き缶とカップ麺の空き容器を脇に押しやって居間へ進むと、大量の洗濯物を散らかしてあるソファーに腰を下ろした。とりあえずテレビでも見るかとリモコンを探したがいつもの場所に無かったので辺りを見渡せば目に映るもの全てがゴミの山、だからリモコンを探すのもテレビを見るのもやめた。ここで空気の入れ替えをするべくベランダの戸を開けたところ、家庭菜園をしようとして遂にしなかったプランターには雑草が生い茂っており、その若草の瑞々しい緑は来たる春の訪れを私に予感させるというよりは「お前もこの雑草と同様につまらぬ存在なのだ」と宣告されているような気がしてならず、ベランダの戸を急いで閉めて再びソファーに座るとゴミの散乱する部屋でひとり意気消沈した。
この意気消沈は先程の新宿駅前におけるそれと全く同じ感覚である。
だってそうだろう、新宿駅前だけでなく自宅においても周囲の雑多なものが私にとって非常に煩わしく、心の休まる暇を全く与えようとしないのだから。とはいえ新宿駅前が煩わしいのは繁華街の性質からして仕方が無いものの、自宅の煩わしさに関しては家主である私としてはどうにかして解決しなくてはならない。で、解決策が閃いた。家の掃除をすることで煩わしい気分は一気に解消、これにて解決である。なぜというに、そもそも掃除とはゴミや汚れを取り除いて清潔にする行為を指して一般にそう呼ぶが、掃除の効果はそれだけに止まらず、掃除を終えて綺麗になった空間というのは我々を気持ち良くさせるものであり、つまり「心の掃除」といえるからである。というわけで、掃除を通じて意気消沈した心を浄めることにした私は、まず手始めに玄関の古新聞を紐で縛り、続いて廊下の空き缶と空き容器、居間に散乱していた雑多なゴミも袋にまとめて、それらをマンションのゴミ捨て場に持って行った。さらにソファーの上の洗濯物も畳んでタンスにしまい、箒で埃を払ってから最後にモップを使って床を磨き上げ、こうして自宅に蓄積された半年分のゴミと汚れを取り除いて家中すっかり綺麗になった……にも関わらず私の心は一向に晴れ晴れとしない。
だから私はミニマリストになる事を決意した。
私がミニマリストになろうと思った理由、それを説明する前に、説明しなければならない事を説明しなければならない。
先程、私は「心の掃除」と謳っておきながら結果は失敗に終わった、ということは、掃除というものは私の心を完全に浄める行為とはならない。なぜなら、私は今もこうして意気消沈しているから。そもそも私が意気消沈に陥った原因について冒頭に遡って考えると、私は自分を取り巻く環境における「雑多なもの」が煩わしく、それをきっかけとして意気消沈したのであり、これが原因である。ところで前述の「雑多なもの」とは「外的要因」と言い換える事が可能であり、例えば、新宿駅前をうごめくサラリーマン、男性アイドルグループ、バニラといったものは私の心を害する存在、即ち外的要因である。この理屈から類推するに、掃除をもってしても自宅における外的要因は払拭することができなかったのだから、どうやら自宅には「ゴミ」や「汚れ」以外の外的要因がどこかに蟠っており、だから意気消沈が未だに解消されないのである。ってことは自宅にある「雑多なもの」をきれいさっぱり取り除いてやることで──つまりミニマリストを実践することで意気消沈という問題は解決するに違いない。
ここで「ミニマリスト」とは、ご存知の方も多いと思われるが、家中の不要なものを捨てて必要最低限のものだけで暮らす人々、あるいはそうした考え方の事である。なお、類義語に「断捨離」という考え方もあるが私はミニマリストを選んだ。だってそうじゃん、断捨離という語感からして何だか堅苦しいし、修行僧みたいで辛そうな感じもするし、あとは何といっても言葉がスタイリッシュじゃない。よって断捨離は私に合わない。なので、ここはひとつスタイリッシュな印象のあるミニマリストを選んだのである。
よし、というわけで今から僕はミニマリストだ。
不要なものをどんどん捨てよう。まずはパンツ!は履かなくても生活していけそうだが無きゃ無いで困る気もする。どうしよう……パンツは保留だな。次はホットプレート!は使う頻度は年に数回程度だが皆と一緒にホットプレートで料理をすると楽しいし、無きゃ無いで困るから保留。そしてハト時計!は捨ててもいいかもしれないが友人が自宅を訪れた際に「え?!オマエんちハト時計あるじゃん!スゲー!」って感じで非常に盛り上がるし、無きゃ無いで困るから保留。めちゃ掛けハンガー!も無きゃ無いで困るから保留。布団乾燥機!も無きゃ無いで困るから保留。こたつ!も無きゃ無いで困るから保留。保留、保留、保留、保留、保留……
こうして自宅にある全てのものを保留にし終えると、これもまた保留にしたソファーに座り、ミニマリストになる事が如何に困難であるかを痛感した。よって相変わらず意気消沈したままである、だって何ひとつ捨てられないのだから。捨てたくても捨てることができない──その最大の理由は「無きゃ無いで困るから」であり、この発想を逃げ口上として私は全てのものを保留と判断した、これは明白であり、我が生来の意志薄弱さ故の甘えといえる。とすれば、ものを捨てるためには甘えの象徴「無きゃ無いで困るから」を乗り越える必要があり、そしてその先には輝かしいミニマリストとしての未来が展けているものと思われる。だから私は甘えを乗り越えるための打開策を考えることにした。で、考え終わったので打開策を以下にお伝えする。
繰り返しになるが、ものを捨てられない理由は「無きゃ無いで困るから」である。無きゃ無いで困るものというのは「有ったら有ったで困るもの」と言い換えることができる。だってそうじゃん、例えば今私が座っているこのソファー、もしこれが無いからといって生きてゆけない訳ではなく、このソファーと同じ座り心地を再現することができないのが困るのであって、ソファーが無かったとしても「座る」という行為が失われた訳ではない、そのため生きてゆける。一方で、この先もソファーが有った場合、このソファーは私を意気消沈させるもので在り続ける、即ち外的要因である。よって私にとってソファーとは、一見して「無きゃ無いで困るもの」だけど実は「有ったら有ったで困るもの」に過ぎない。だから捨てても捨てなくてもどっちでもよい。どっちでもよいなら捨ててもよい。ということは、先程私が保留と判断した自宅にあるすべての「無きゃ無いで困るもの」は、有ったら有ったで困るだけだから捨てても問題は無いのであり、これぞ非常に前向きなパラフレーズを用いた打開策である。とはいえ、全部捨てることで意気消沈は解消されるかもしれないが、そうなると今度は衣食住といった生活に支障をきたすことで別の問題──つまり、死を招いたり罪を犯す恐れがあるため、そうならぬよう、ものを捨てるに当たっては細心の注意を払わなくてはならない。
以上、長々と説明してしまったがこうした「捨てる」or「残しておく」の方針をまとめると以下の通りとなる。
上記の方針に従えば躊躇なくものを捨てることができる。
後は実践あるのみ、というわけでまずは自宅にある雑多なものの内、鬱陶しくて仕方のない家財道具一式──つまり冷蔵庫やテレビといった家電、ソファーやテーブルといった家具を捨てることにしたが、流石に私一人で運び出すのは困難であり、そのため廃品回収業者に対応してもらうことした。そして業者が到着するまでの間、プランター、ハト時計といった自力で捨てられるものを次から次へと捨てた。不思議なことに、捨ての方針を立てるとその方針が義務となって遥か彼方から私に向けて「捨てろ」と命じてくる様な気がする。だからパソコンも食器も炊飯器も何の迷いもなく捨てることができた。
四時間後。残すは最後の大物である本棚を捨てるだけとなった。大物といっても、本棚それ自体は回収業者が運び出してくれるから問題無いのだが、中に詰まっている大量の書物を捨てるのがなかなか手間である。しかしこれは義務。やれといったらやれ。喝を入れられた私は、本棚から書物を取り出してそれを十冊単位にまとめて紐で縛ってゴミ捨て場に持って行く、を繰り返した。そして次なる書物を捨てようとして私が手を伸ばした先にあったのは『プラトン全集』であった。
あんたこれ、本当に捨てていいのか。
というのも、このプラトン全集はただのプラトン全集ではないからである──遡ること五年前、当時の私は全く生活に困窮しており、ならば働けばいいものを私ときたら労働断固反対のスローガンを掲げ、その結果、四六時中その辺をぶらぶらして暇を持て余していた。そんなある日、友人から金を無心した帰りにとある古本屋の前を通り掛かった際、このプラトン全集が投げ売りされているのを目撃した。価格は一万五千円との事。アホほど安い。最低でも五万円はするであろうプラトン全集をこんなアホみたいな安値で売るなんて正気の沙汰とは思えなかったが、とにかく今すぐ買わないと他の誰かに先を越されるのではないかという不安がよぎった。そして財布を見れば先程友人から借りた金が二万……ということは、もしここで私がプラトン全集を購入した場合、二万円から一万五千円を差し引いて五千円が手元に残り、たったこれだけのゼニで来月の晦日まで過ごさねばならなかったが、それを顧みず私はプラトン全集を買った。で、買った後は別の友人宅を訪ねて新たに二万円を借りた。これは計略であり、内田百閒氏の言葉を借りると「錬金術」ともいえるが、なんていうかまあ非常に前向きなパラフレーズなのであって、そんな苦心の末に手に入れたプラトン全集、その内容を今こうして振り返ってみても何が書いてあったのか1ミリたりとも思い出せないが、こうして長々と私が何を言いたいのかというと、このプラトン全集にはプラトンの思想が込められているだけでなく、貧乏だった当時の思い出──私が金を無心する際に友人が言った「君はきっとロクな死に方をしないだろうな」、友人の妻が言った「二度と来ないで」等々の辛辣な助言を受けた私は再起を誓い、紆余曲折を経て今こうして地に足のついた暮らしを送ることができているのであり、そうした過去の艱難辛苦を乗り越えた不屈の精神がこのプラトン全集には乗り移っているのだから──以上が無きゃ無いで困る理由である。
その一方、有ったら有ったで困る理由は明白である。
というのも、プラトン全集は全十五巻+別冊からなる大作であり、おそらくタウンページ十冊分に相当するであろう分厚さが発する圧迫感、これを例えて言うのであれば眼前に聳え立つタウンページの如し、率直に申し上げてデカイわ鬱陶しいわ邪魔臭いわで私を意気消沈させる外的要因の権化である。よって捨てるに越したことは無い。これは義務だ。よし捨てよう。気を取り直してプラトン全集を紐で縛っていると「本当に捨てていいの?」「もったいなくない?」という誰かの声──これもまた宇宙の彼方から私に対し「その全集だけは捨てるな」と発信してきたため、いや捨てる、これは義務だと言い返したところ、するとまた「義務じゃないですよ」「いや義務だ」「は?どこが?あなたが勝手に捨てようとしてるだけでしょう?捨てずに残しておいた方がいいですよ」「いいや捨てるといったら捨てる」「いつか読み返したくなったらどうするんですか?」「全集の内容は完全に覚えてるから心配は無い」「え?だってあなたはさっき『何が書いてあったのか1ミリたりとも思い出せない』って言ってたじゃないですか」「確かに言った。がしかし、私は『思い出せない』と言っただけであり全集の内容は私の脳のどこかには記憶されていて完全に消失してしまったわけではないからいつでも思い出せる訳であるからして今は全集の記憶を呼び覚ますタイミングではないもんやさかいにほかして問題無いよってに言うてんのにさっきからオマエときたら宇宙の果てからガタガタガタガタうるさんいんじゃこのボケカスアホンダラのバニラ野郎が!」
こうして断固たる決意の下、プラトン全集を打ち捨てた。そして自宅とゴミ捨て場を何往復したのであろうか、私は無心でものを捨て続けた。
午後十時。トラックに満載の家財道具を積んだ廃品回収業者を見送った。
今、我が家に残ったのは、電気、ガス、水道、衣類、以上である。ソファーに座ろうとしたがかつてのソファーは無かったのでその場にしゃがみ込んで周囲を見渡せば、カーテンの無い窓の先には外の景色が普段以上にくっきりとして見えた。おそらく向こうからも私の姿は丸見えであろう。戸を開けてプランターの無いベランダに出てみると、ベランダの隅に金魚鉢が置いてあるのに気付いた。ああ、そういや捨てるのをすっかり忘れていた。これを捨てることで私も晴れてミニマリストだ。
金魚鉢を持ち上げてみると鉢の中には何も入っていないので当然軽い。ベランダから戻り、何もない部屋の中央に金魚鉢を何となく置いてみた。なかなか良い感じだ。この光景を他者が見たらどう思うのだろう、まあ何にせよこの金魚鉢は良い。そう思ったのは私がそう思ったから。つまり全くの主観的妥当性による判断であり、だから普遍性や必然性を持つのではない。あらゆるものを失った部屋、そして金魚鉢本来の目的を失った金魚鉢──部屋との調和、この利害無き空間は自律に基づいている。もし仮にこの金魚鉢に水を張って金魚を泳がせると私の意気消沈は悪化してしまうのかもしれない。では金魚鉢を捨ててみてはどうか。
この度の私はミニマリストなるものに触発され、その結果、電気、ガス、水道、衣類を除く全てのものを捨てた。これはミニマリストを前提条件とした事象であり、してみると、何も無いだだっ広い空間に残された金魚鉢は金魚鉢それ自体として良いから良く、そこにミニマリスト故の論理は存在しない。あ、何だか嫌な予感がしてきた。
それにしても先程から空腹で仕方が無い。ならば腹を満たすことで空腹は解消されるだろう。今夜は果たして快適に眠れるのだろうか。ミニマリストを実践して良かったのだろうか、悪かったのだろうか、それについてはまた明日の感覚で考えることにして今はお腹も空いたしコンビニへ行くことにするか。
とそんな事を思っていた、真夜中の含。
以上
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