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完全記憶

ビルの屋上で青年は嬉々とした表情で全身に風を受けていた。彼はこの世に生を受けてから20年のこの短く長い人生に終止符を打とうとしている。

彼の一番最初の記憶は真っ暗な世界である。そこでは軽い身動きしかできず、そもそもしたいという感情があったとも言えなかった。しばらくすると急に光を感じた、初めて彼は外というものに触れたのである。そして当然のごとく泣いた。これを彼が出産であったと認識するのは少し先のことである。

普通ならあるはずのない記憶をどうして彼はもっているのか、それは彼がすべてのあらゆる物事を記憶出来る、悪く言えば勝手に記憶され、忘れることができない人間だからである。

彼が生を受けてからの人生は順風満帆だったといえるだろう。小さい頃は神童と呼ばれ、もてはやされた。すべてのことにおいて早熟なのである。初めは何事もは他の子と同じであれ、少し習えば誰よりも上手くできた。その度に彼は親に褒められた、優越感に浸った。一方で飽きるのも早かった。大体1週間長くても一か月もするとそのパタッとやめるのである。そんな彼が唯一長く続いたのが勉強であった。“一生勉強”とはよく言ったもので勉強には終わりが無いように感じられた。そのため彼はどんどん新しい学問を欲し机にかじりついた。6歳になる頃には解けない問題はほぼ無くなった。その能力に注目が集まらないはずもなくメディア等に“人類の最高傑作”として世界中で話題になった。しばらくするとスポンサーが現れ、7歳にしてH大学に研究室が与えられた。しかしそれが彼を躓かせる一歩になってしまった。彼は解答がある問に対しては答えを出せるのだが、答えがないつまり研究に対しては全く才能がないのだ。というのも彼は今まで厳密には問題を解くという作業をしたことがなかったのである。彼の勉強法は解答をみてそれを一回解きなおすというシンプルなものであった。その作業を行えば次に同じ問題または酷似した問題は必ず解けた。その結果考察という人間とって致命的な能力が欠けてしまったのである。世間の少年にかける期待は大きかったがゆえにその逆風は嵐のように激しく冷たいものだった。彼に研究者としての能力がないとわかる否や、誰も彼に手を差し伸べなくなり、彼は大学を追い出された。その時には彼はもう勉学に対する興味すらなかった。

そんな折に出会ったのがM美であった。彼はのめり込んだ。なんといったって彼は恋愛をしたことが無かったので全てのことが刺激的で色が満ち溢れていた。彼女の発する言葉、なす仕草を何でも覚え、それが楽しかった。しかしM美はとんでもない悪女であった。彼が自分にのめりこんでると分かるととにかく彼からすべてを奪った。彼はメディアに多少は露出していたこともあり一般人よりもお金持っていた。まずM美はそこに目をつけ何かにつけて彼から金を巻き上げた。貯金がなくなると彼のものを容赦なくお金に変え、挙句の果てに彼は腎臓を一つ失っていた。なぜそこまで彼はしたのだろうか?答えは簡単である彼はこの経験自体に刺激を受けていたのである。ほとんどのことをやりつくし、興味を失っていた彼にはとっては裏切られることが新鮮だったのである。ただしばらくするとM美の戦法にも多様性が無くなり、それを機に彼は恋愛に飽き始めた。金を巻き上げられなくなったM美は当然彼から離れた。

それからというもの彼は何の刺激もない日々を過ごした。すべてのことが灰色で薄い、まるで自分だけが違う世界に迷い込んだ気さえした。
そんなある日彼は飛び降り自殺のニュースを見て思わず声をあげた。彼は死を知らなかった。
彼は早速死について研究を始めた。死に関するサイト、文献、あらゆるものを頭に入れた。しかし彼は結局死に対する明確な解を得られることができなかった。というのもこの世に存在する人間は誰一人死んだことがないからわかるはずがないのである。そのことがますます彼を駆り立てた。彼はどうしても死を記憶したかった。

そして今彼はビルの屋上に立っている。彼は未知なる刺激に心を躍らせていた。恐怖心、興奮、焦燥感すべての感情が引き出されたようななんとも言えない心地に彼はうっとりした。そしてついに彼は足に力を込め、空中に踏み出した。
どすっ!!
鈍い音とともに彼の体は粉々になった。記憶に取りつかれた彼は記憶に殺され、肝心の死はまだ“記憶”されていない。

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