自分自身を認めるということ。
悔しいけど負けを認めなくてはいけないとき。負けとまでいかなくても、ちょっと無理だな、これは適わないな、とかそんなことを思う瞬間がある。たとえば、友達の家に行って出てきたご飯が、とても豪勢な料理だったとき「あれ、こんなのうちでは作れない」と思うような感覚が近しい(と思う)。
この感じを背負った後にどう思うかは人それぞれだ。「負けないように頑張ろう」と前向きな人もいれば「これはちょっと適わないからぼくは止めておこう」と引き下がる人。さらには「人は人、わたしはわたし」と我関せずで突き進む人。それぞれにそれぞれのよさがあり、いろいろな生き方、考え方があるわけだから否定も肯定もない。大切なのは自分で決めることだろう、と思う。
自分自身の軸があれば、どのような考え方でも自信を持って生きていけばいい。そう思っているけれども、世の中の多くの人はそうじゃないように見える。大多数の意見に流されること、もっと小さい範囲だと自分の所属しているコミュニティの同調圧力に屈してしまう人が多く見える。コミュニティにいづらくなるから、違う意見でもとりあえず賛同しておく、これほど無意味なものはない。
なんてことをtwitterなどのSNSをみながら感じてる今日この頃。
このようなことを感じたのは昨日、完全な力負けでヤクルトが広島に敗れたからだ。エラーやしょうもないミスから負けたのであれば、グチのひとつも出てくるかもしれない。でも、そんなものはまるで出てこないほどの完敗。あぁ、これが優勝するチームなんだなぁ。と第三者的な目線で眺めていた。まぁ、当事者ではないから最初から第三者なんだけれども。
あきらめないことも大切だけど、自分自身を認めることも大切だよなぁと思いながら、銀杏並木を歩いていた。SHAKE SHACKからは焼きたてのハンバーグの匂いが漂い、空腹をそそる。少しだけ早足で青山通りにでて渋谷までの道のりを歩く。人で溢れている外苑前交差点ふきんから10分ほど歩き、表参道を過ぎると人はまばらになり、静かになる。宮益坂にさしかかるとまた駅に向かって少しずつ喧噪が広がっていく。
この光景を見るのもあと10回。認めたくないけどあと10回なんだなって思うと少し切ない。1年がもうすぐ終わる。
9月3日:ヤクルト(2-9)広島
こちらサポートにコメントをつけられるようになっていたのですね。サポートを頂いた暁には歌集なりエッセイを購入しレビューさせて頂きます。