倫理的消費って快楽的
「倫理的消費は快楽を伴う消費だ」と言語化されててすごく面白い視点だなと思った。倫理的消費って社会的にこうであるべきだから個人もこうするべきだ、って言う上からの啓蒙のイメージを持っていたことに気がついた。
やっぱり自分の欲求が満たされるような快楽が伴った方がいい。
当たり前のように思うのに倫理的消費という文脈においてはそう思えていなかった。多分、自己欲求を満たしすぎていたから社会に問題が起きてきたから、その戒めの意識があるのだろう。人の欲求だけがトリガーとなってむやみやたらに木を切ったり、畑を開墾したり、魚を獲ったり。その行為が、実は地球の生態系に支障をもたらしていた。だから自己欲求を満たすだけでは良くないとされている。
だからこそ、「欲求を満たしていい」という意見が新鮮に感じた。確かに改めて考えてみると、エシカルなものを買いたいときって、それを買う自分の行動が素敵って思うからという理由もあって、だからエシカルな消費って外の世界がより良くなってほしいと思う一方で自分の欲求を満たすような買い物。(私の場合は自分がいいと思うもの、美しいと思うものを買いたいという背景があるし、実際それは消費することは自分の価値観を作ることにつながるとも言われている。)
だから「社会のため」って思うのはとても素敵なことだと思うし、でもそれって実は全部自分のためだったりしないか?見直した方がいいかもしれないし、でも消費に参加した結果周りの何かが良くなるのであれば買うと決めたきっかけは自分のためでもいいのだと思う。
大量生産消費社会への反抗するのが倫理的消費だと思っていたけど、倫理的消費という概念もあくまで消費の仕組みの枠組みにあるものだと気がついた同時に、大量生産消費を否定しすぎていたのかもしれないと思いはっとしたし、欲求とか好みとか、好き!ほしい!って思うときめく気持ちって大事。自分も社会の誰かもハッピーになる、そんなあり方がいい。
<参考文献>
畑山要介(2020)『倫理的消費ともうひとつの快楽主義――K. ソパーによる消費主義批判の刷新――』
いただいたサポートは「食」を発信する活動に使わせていただきます^^