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「社会の歯車」は悪か

※この記事は学校に関わる人すべて(子どもも大人も)に向けて書いています
「逃げ口上はクセになるし、厄介だよ」という話

「社会の歯車をつくっている」

学校が批判されるときに使われる。

「社会の歯車」

いつ、誰が言い出したのかはわからないが、
「「歯車」は「社会を回すためだけに存在する無個性の一つの部品」であり、そんなものにはなりたくない!(自分の価値を認めてほしい。自分を一人の人間として認めてほしい)」
ということなんだろう。

果たして、社会の「歯車」は悪なのか。

社会は「歯車」でできている

社会は「歯車」がうまく作用することでできている。
建物や道路は設計士、大工、作業員のおかげ
肉や魚、野菜、果物はそれぞれの生産者のおかげ
離れた土地の美味しいものや優れた製品が手元に届くのは、輸送業者のおかげ

そうやって互いに作用しながら社会は成り立っているし、発展してきた

「歯車」は悪でもないし、社会に必要なのだ
「歯車」の無いただの箱を作っても、虚しい音がするだけで。

耳障りのいい言葉にだまされない

「社会の歯車になりたくない」と声高に唱える人たちは、「「歯車」とは無個性で、いつでも誰とでも替えがきく、使い捨ての存在」つまりそれは「個として尊重されていない」という認識なのだろう。

しかし社会は「歯車」によって回っているし、その作用によって利益を享受している。
これは避けようのない事実。

「社会の歯車」発言は一見、個の尊重を促すような耳障りのいい言葉だ。
しかしこの発言に迎合するヤツは、一生「社会の歯車」である。皮肉なことに。

そもそも「歯車」になれるのか?

そもそもお前は「歯車」なのか?
「歯車」としての「役割」を全うできるのか?
「社会を構成する一員」として「必要な能力」を身につけているのか?
「誰かの役に立ち、その行動によって対価を得られる存在」なのか?

いやいやいやいや、「歯車未満」の存在じゃーん、プププ

なんて言われないように、まずは「歯車」を目指そう。

「歯車」が嫌なら価値観を変える

「嫌」という感情が起こるのは、「そこに価値を認めているから」である。

「社会の歯車になりたくない」という感情は
「働く」に価値を置き、その価値に反していると感じている、ということになる。

つまり

「働く」という価値のある場面で、「自分」という存在が認められないのは嫌だ

と考えているのだ。

この考え方を変えよう。
「自分」という存在が認められられる場所を別につくるのだ。

社会には「歯車」が必要だ。
また、一人の人間として生活するためにはお金が必要で、お金を稼ぐために労働しなければならない。
逃れられない。

この逃れられない仕組みの中に、自分という「個」を存在させず「無」になって働くのだ。

「生きるために働かなければならない。そこに善悪も優劣もない。」と達観してみよう。

人生で大事にしたい部分を「仕事以外」に求めよう。
推し活でもいい。
スポーツでもいい。
趣味でもいい。
自分が「価値がある」と認めた場所で、大いに自己を発揮すればよい。

「お金」が「幸せ」の人へ

「働く」ことの対価である「お金」は、他よりも良い価値を提供できる人のところに集まる。
人は、社会(全)の中の個(一)でしかない。
その個(一)から、「◯◯さん」と立場を与えられるには、個(一)の中から何かしら突出していなければならないので、それなりの努力が必要だ。

「社会の歯車になりたくない」と叫んでる人へ

個性を持とうと努力しましたか?
他とは違う価値を提供できるようになる努力はしましたか?
突出しようと努力しましたか?

叫んで拒否するだけでは、「歯車」にさえなれませんよ。

まずは「歯車」になってから、話はそれからだ。


バーイ(o_o)ノ

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