兎と亀とコンクリート

薄暮   -流-

渋谷スクランブルスクエア、9階。ふと思う。いま座っているこの席の真正面、直線上には何があるのだろうか。目の前にある雑貨屋の向こう。ビルの外。もちろん空。もっと、もっと、その向こう。日本を飛び出して、まっすぐ進んだその先にぶち当たる、同じくこちらを向いて座っている人は、どこの国のどんな人だろう。

足元をみる。地上からここまで25メートルくらいのはず。あいだには8つもの階層がある。それらを繋ぐ電動の階段と上へ下へと運ばれる人。さらにその下、地中には轟音で行き交う電車たち。すごい数の路線が上下で交差し、走り回っている。高速のミミズみたいだ。

こういう生産性も意味もない思考にとらわれて、無駄に何十分も過ごす。いや、1時間以上経つこともある。そして嬉しくなったり、怖くなったりする。変だろうか。

暇があればいるはずもない怪人を想像して、世界を救う日を本気で空想していた幼少期のままだ。お風呂でよくのぼせてたっけ。

意味ってなんだろう。無駄ってなんだろう。

そんなことばかり繰り返して僕たちは大人になった。あの時間がなかったら、皆どんな人になったろう。少なくとも僕には、良いイメージは湧いてこない。これだって無意味なタラレバと言われれば、返す言葉もないけれど。


最近「お金もちより時間もちになろう。移動は少し無理してもタクシーやグリーン席。移動時間に仕事ができるから」なんて話を聞いた。

時間の価値、大賛成だ。でもその話には続きがあって、電車や徒歩で目的地に向かうことがどれだけ無駄なことかを説いていた。

電車や徒歩、だめですかね。ヒントやアイディア、転がってると思うけど。視点を変えて、朝少し早く起きてみるのも良いかも知れない。それぞれにそれぞれ良さを見出せない頭で節約した時間をどれだけ有効に使えるのか。そんなに急いでどこにいく。

「目的地や約束がある場合の話」「ビジネスの話」なんだから、そうバカみたいに噛みつくな。なんて声も聞こえてきそうだ。分かってる。反応しなくても良いことに頭を使ってるのは、分かっているよ。


徒歩好きがこうじて400キロほど歩いたとき、高い山を越えても変わらなかった屋根瓦や方言が小さな丘で変わることがあった。車や新幹線では知り得なかったことだ。

意味があるのか問われれば、多分あまりない。もしくは、すでに研究され終えていることかも。だけど自分にとっては、誰かに共有したい嬉しい発見だった。それに僕のような凡人じゃなければ、この小さな発見を革新的なアイディアのヒントにする人もいないとは限らない。


一昨日、Twitterで渋谷駅のホームにベンチができて喜んでいる人の呟きが回ってきた。なぜ嬉しいのか。曰く、近年の東京はあるところに人を留まらせることがないように設計されてきたからだと。

とても共感した。そんなに急がせてどこにいかせるの。あらゆるもののスピードが上がって、あらゆることに意味が求められる。街を見渡すと、意味のないものや無駄なものはそうそう見当たらない。草木でさえ計画的だ。

人の心は、このスピードに着いて行けるのか。もちろん技術革新や進歩を手放しに批判したいわけじゃない。むしろ、そのシンギュラリティがなければ限界を迎えている部分も多い。

でも、短期間での大きな革新は大きな波であることに変わりなく、乗れる人とのまれる人を生み出すのも事実。

自分に限っていうと、仕方ないと割り切れるほど強くできていない気がする。同時代的な革新も大切だけど、長くゆっくりと進む変化の可能性や可視化も同時に模索したい。

わかりやすいこと、早いこと、伝わりやすいことが必要とされるのは理解できる。ことビジネスに関しては、特にそうだと思う。それでも、わかりにくいこと、遅いこと、曖昧なことも僕は同じくらい愛したい。

そこには「綺麗」ではなく「美しい」がある気がするから。


ああ、また取り留めのない文章を書いた。

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夜半   -成-

"I wanna buy my mum a big house. I wanna be a great father and I wanna help people.
ママに大きな家を買ってあげたいんだ。いつかは素晴らしい父親になって人助けもしたい。

Things like sitting there on Instagram all day, watching pointless Youtube videos all day don't get me there.
時間だけを食い潰すようにYoutubeやInstagramを1日中眺めているばかりじゃ、僕はその目標を達成出来ない。

It took me 19 years to figure that out."
こんな事を理解するまで19年も費やしちゃったよ。

この一節は、James Scholzという21才のYoutuberがアップロードした"How I studied for 12 hours a day over a year"(僕がどうやって1日12時間の勉強を1年以上も続けているのか)という約400万回ほど再生されているビデオの中で、途中彼が声を震わせながら発したメッセージである。

Jamesの動画の9割はライブ配信のアーカイブで、演出や脚本のない簡素な作りになっている。
彼が12時間勉強している様を安直にLIVE配信しているだけなのに、世界各国から毎回10万人以上もの人々が視聴しているという中々稀有な存在だ。
動画内で彼が言葉を発するのは勉強の開始前・終了後、それから1時間ごとに発生する10分の休憩時間のみであるからして、僕のように作業中の風景としてJamesを配置しておくと作業がずいぶんと捗る。

彼の生い立ちはベトナム人の母と白人系アメリカ人の父との間に生まれたハーフで、アメリカのユタ大学に通う大学生だ。
両親の別れについて明記されている訳ではないが、冒頭で"ママに"と限定的な対象に贈り物をあげたいという欲求があることから、彼は彼の母と2人暮らしであるらしいことが分かる。

Jamesは若干19才の時に、時間の使い方は自分の命の使い方だという事に気づいた。
その直接的な契機は、このパンデミックによって彼の母がベトナムへ一時帰国しなくてはならなかった事に起因する。
アメリカに初めて独り残される事になった直後、彼は食欲を失い、一日中無気力になり、ただただ戸惑う事しか出来ない日々が続いたという。
そんな孤独との格闘をしばらく続けた後、彼の内側でメラメラと燃えたぎる"激情"(彼の言葉だとFlame)を掴んだ、と描写している。さらにその激情は同じような境遇に遭った
事のある人々を助けたいという強い欲望によって勢いを増していった、とも。

自分自身と他者への深い沈潜の末、「たとえ僕のようなどこにでもいる凡庸な一人の人間でさえも、"激情"によって強く動機付けされた時、どれだけの事を達成出来るのかという実例に自身が成って示す事で、身動きの取れなくなってしまっている他者を導く事が出来るのでは」と思い付いた。

その後、準備と実際にプロジェクトを始動させるまでの葛藤を乗り越え、2020年3月から始まった毎日12時間の勉強は現在に到るまで続いている。

僕はもちろん1日12時間の勉強を約1年半も続けているという超人技そのものに感嘆しているが、最も胸を打たれたのは彼の激情に対してである。

彼の激情には利己性の匂いがしない。また、それが真実である事を裏付ける圧倒的な行動力と努力。一体、自分の人生を、その全てではなくとも一部だけでも切り取って他者貢献とひたむきに向き合った事がある人はどれだけ居るだろうか。僕は当然未だ「ある」と言える立場ではない。

"YOLO" という言葉を知っているだろうか?"You Only Live Once = 人生は一度きり"の略語だ。
近頃のSNSには、一度きりの人生を謳歌する為に「常に楽しくあること」が正しいとする発信が目立つような気がしていて。
誰しも楽しい方が良いに決まっているからそれはその通りなのだけど、本来この言葉にはまだ可能性と選択の余地があったはずなのに、と思ってしまう。
それなのに人生は一度きりなのだから自分の欲求を満たすためだけに生きようと断言した途端、一気にさもしく感じてしまう。

とは言え、良いか悪いかでなんでもかんでもすぐに二極化思考で結論づけるのは現代人の悪い癖だ。
短絡的に結論づける前に、まるっと転換させて「退屈」について少し考えを巡らせてみたい。

子供の頃僕は、退屈や暇を感じた事がなかった。その概念がなかったのに、いつ頃からか退屈や暇が分かるようになった。

なぜだ。

僕が子供の頃はスマホなんて当然なかったし、一家に一台据え置きのゲームがあった訳でもない。基本は外遊びで、たまにゲームを持っている友達の家にお邪魔して一緒に遊ぶのがセオリーだった。今の世の中よりも確実に不便であったはずで、欲求を手軽に満たしてくれる装置は極めて少なかった。

子供の僕に向かって僕の親は「私たちが子供の頃はゲームなんてなかったんだよ」と言った。それを聞いた僕は「じゃあ、何して遊んでたの!?」と大真面目に聞き返した事をよく覚えている。今の子供達に僕らが君たちくらいの年齢の時はPS4もNintendo SwitchもスマホもYoutubeもなかったんだよと言ったらきっと真ん丸の目を見開いて同じ返答をぶつけてくるはずだ。

あの時ほとんど毎日遊んでいた公園で、誰かが「今日、何する?」と口火を切れば知恵を絞ってよくあんなにも多様な遊びを思いついたものだと感心してしまう。
ブランコに乗って安全柵を飛び越える遊びをしていたはずなのに、数時間後にはその安全柵に乗ってバランスを取りながら誰が一周出来るかという競技に変わっていったり。
アイデアに型も制限もなかった。誰しも"楽しい"に最も純粋で厳格だった。

思うに退屈とは、与えられる楽しみや刺激に慣れ過ぎてしまっている状態なのかもしれない。タバコを辞められない喫煙者が「あなたは薬物依存の状態です。覚醒剤の乱用者と依存という意味で全く差異はありませんよ」と事実を突き付けられないと気付かないように、僕らも無意識でより強い刺激(娯楽)を求めるように生きてきた。その過程で、楽しみを自分たちの手で創作する事を忘れてしまったのかもしれない。

「いーち抜けた!」

率先して何かをするのが怖いなら、代わりにそう言って誰よりも早く走っていったあの風みたいな奴に全速力でついていけばいい。
あるいは、いつもは寡黙なくせに的を射た発言をスマートに繰り出すJamesみたいな奴に。

それで間違ってた事なんて一度もなかったんだから。

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東雲   -玉-

東京は三田、聖坂という坂の上に、奇妙なコンクリートビルが建っている。

その作りかけのビルは、見るからに頑丈そうでありながら、明らかに異質な存在感を放ってもいた。

建設中によく見かけるような鉄パイプに覆われたそのビルは、空に向かって伸びる途中で突然何かを思い出したかのように歪曲し、外壁はところどころ咳やくしゃみをしたみたいに凸凹としている。

「生き物みたいだ」

数年前に東京国立近代美術館で開催されていた「日本の家」展にて、日本の建築の現在というような題目で展示されていたその映像に、僕は胸が高鳴るのを感じていた。

カメラがビルの内部へと入っていく。天井には用途不明の穴が空いており、丸く切り取られた東京の空に見惚れているうちに、これまた不思議な空間の中でゴウンゴウンと機械音が鳴り続けていることに気づく。セメントを自動でかき混ぜる、巨漢のミキサーだ。

その隣に一人の男。ミキサーからセメントを箕(み)と呼ばれる小さな容器に移すと、いったん上階にのぼってから、その箕を引っ張り上げる。

少量のセメントを運んでは型枠に流し込み、また階下に降りてミキサーからセメントを掬い取って箕に移す、それを何度も繰り返す。これが数週間経って完全に固まることで、コンクリートになる。

途中で鑑賞するのを切り上げようかと思うほど地味な画面の向こうで、「ふう」と額の汗を拭ったのが、このビルの設計及び建築施工を行っている岡啓輔である。

この建築家は、ホームセンターの材料だけでこの「蟻鱒鳶ル(ありますとんびる)」を建てており、すでに5年近くこの作業を続けているという。

一般的なビル建築であれば、多くの業者が関わっている上に、ポンプ車でセメントを型枠に流し込むので作業スピードも格段に違うはずだ。作っているのも犬小屋ならまだしも、ゆくゆくは4階建てになるビルである。

それを独力でやり遂げようとする男性の魂胆が気になったが、僕はいったんそれを「変わり者」という引き出しに仕舞い込んだ。

一体この地道な作業をいつまで続けるのだろう。「ふう」と気持ちを切り替えるような孤独の吐息、それとミキサーの稼働音だけが響く室内、それを見ながら先ほどの胸の高鳴りが感動なのか、それとも絶望なのか分からなくなった。

それから数年経って、たまたま古本屋で手に取った新井英樹の『セカイ、WORLD、世界』という短編集に、久しく記憶の彼方にあったその名前を見つけた。

「せかい!! 岡啓輔の200年」

岡啓輔に依頼されて彼の建築の経緯を漫画化したその作品には、あの展示では知る由もなかった、小さくも胸に迫る物語がいくつも詰め込まれていた。

思春期に大工を志したが、虚弱体質によりその道を諦め、母親の奨めで建築家を目指したこと。その後、建築の悦び、その根源を探る場として長野の山奥に開かれた「高山建築学校」に参加したこと。

メキメキと力をつけるも恩師に「禁建築」を言い渡され、職人修行、舞踏に5年以上の心血を注いだ。そして、恩師の逝去、妻からの「二人で住む家を作って欲しい」という言葉をきっかけに、「蟻鱒鳶ル」の設計に取り掛かったということらしい。

高山建築学校での「考える前に作る」という経験や、舞踏における「即興」という考え方の影響は大きく、ビルの設計図もそこそこに、買った土地をスコップで掘り始めた。

地下を掘るだけで1年半、それからコンクリートを打設するのにさらに数年。

いったい何が「岡啓輔の200年」なのかと思えば、なんと「蟻鱒鳶ル」の耐久年数が200年だった。

一般的なコンクリートの耐久年数が50年あれば良しとされている建築業界への不満、また個人の建築施工に一般のセメント会社は手を貸してくれないという厳しい状況の中で、彼はネットに公表されている情報からベストのセメントの濃度を導き、だからこそ自力でセメントを作っていたのだ。

200年。それは、彼が亡くなってからも、周囲の住居が建て替わったとしても、100年以上はそこにあるということだ。

ここで初めて、あの胸の高鳴りがやはり感動だったということに気づいた。

何より意外だったのは、独力でビルを建てているとばかり思っていたが、友人や通りがかった人々の協力も得ていたし、ときには彼らが「これ使ってよ」と持参した型枠を使って壁を作っていたことである。

こうなると、とてもただの「変わり者」とは思えない。その思いに打たれ、共にそのビルが完成する日を楽しみに待つ近隣の人々もいるのである。200年も残り続ける作品を創る者というのは、きっと孤独で、浮世離れしているとばかり思っていたが、どうやらこの建築家は世界との接点を多く持ち続けているようだ。

そしてこの建築家は、「蟻鱒鳶ル」その名付け親であるマイアミという友人の言葉が忘れられないという。

「夢ってのはその人ひとりの人生でやり遂げられる様なビジョンじゃない!! それは目標だ。本当の夢ってのはな、自分が死んでも誰かがその意思を継ぐくらいの大きなビジョンのことなんだよ!!」

もちろん「変わり者」であることは確かだから批判も多いし、さらにこのビルの建つ三田4丁目は再開発地区となり、現在工事がストップしている。

再開発も、街にとっての一つのビジョンではあるから、仕方のないことかも知れない。しかし、自分が死んでもなお100年残るものを創れる人間が、いったいどれだけいるだろうか。

僕はビルを作るつもりはないけれど、彼の半生には、大きく心を動かされた。僕にとっての、100年、200年持つビルとは何だろうか。

考える前に、作ってみるべきか。

岡啓輔は、「蟻鱒鳶ル」の設計図を高山建築学校の先生に提出する際、ざっくばらんに描いたビルのようなものの隣に、こんな言葉を添えたという。

「何かの完成である。と同時に、次への舞台である。」


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