生活の三大要素 (1) - 1月テーマ 「食について」 -

大変唐突ではあるが、事あるごとに日本食は最高だな、とつくづく思う。

というか、思い知らされるのかもしれない。

「食」を紐解けば、必ず文化や歴史が見えてくる。
きめ細かさと隣り合わせで、 “Weird”(奇妙) な文化を形成してきたこの国の気に入っているところを挙げるとするならば、自然と食に尽きる。

自然については、昨年に書いた「秋について」というテーマで少しだけ触れているから、興味のある人は是非覗いてみて欲しい。今後、個人的に、またこのチームでも深掘りしていくテーマでもあるので、また違う形で発表出来ればと思う。

さて、本題の食についてだが、冒頭で述べた通り、僕は述べ5億回ほどは日本食の有り難みに合掌した事がある。

但し、ユネスコ無形文化遺産に登録された「和食」ではなく、あくまで一般市民が日常的に食する「日本食」として、このテーマを書き上げていく所存だ。

理由は単に、和食がいかに素晴らしいかの論拠となる一次情報が僕の中で熟成されていないというだけである。

より簡潔に、日本食と和食の定義が曖昧な方には、皆大好きラーメン、餃子、カレー、オムライス等を思い浮かべて頂き、それらの総称である「日本食」が、僕の指し示すものという理解で読み進めて頂きたい。


生まれて初めて、日本食が恋しいと思った時の話から始めてみよう。

19歳の頃、アメリカはユタ州から1ヶ月ほどかけてメキシコへと下っていく旅に誘われた。

当時、僕の世界の中心はアメリカだった。
大学では英米文学を専攻していたけれど、米文学を圧倒的に好んだし、音楽も古着もアメリカに傾倒していたから、そんなまたとない機会を逃すわけがなかった。

出発前にはヒスパニックな感じのパーマを掛けたりして、想像しうる限りのローカルに寄せて自分をチューニングした。

13時間に及ぶ長距離フライトと、エコノミー症候群で痺れた足を引きずって、もれなく時差ボケにもしっかり苛まれたけれど、心だけは前のめりで弾むようだった。

ソルトレイクシティ国際空港に着くと、僕の連れが留学時代毎日のようにつるんでいたという巨漢の友達が、これまた巨大なクロスカントリー車で出迎えてくれた。

彼の名はデクスターといって、いわゆるジョック(日本で言うところの体育会系。アメリカのスクールカーストで言うところの頂点)に類する白人だったが、とても控えめで、英語が全く話せない僕を小まめに気遣ってくれた。

彼らが車内前方で久しぶりの再会に盛り上がる中、僕はと言えば後部座席から眺めることの出来る道路標識の一つ一つを穴が空くほどに見つめていた。

突拍子もなくデクスターがヒップホップを掛け始めると、車内全体がもの凄い勢いで振動し始めた。

音に呼応するこの振動源は何かと思い、あたりを見回すと、どうやらそれらしき物を最後部の収納に発見した。

特に疑いもせずただのスーツケースか何かだと思って取り留めもしなかったそれが、実は巨大なウーファーだったなんて。

いつ頃からそうなったのか、或いは今でもそうなのかは知る由もないが、当時のユタ州のローカルティーンの間で、バカでかい車にバカでかいウーファーを積み込むのがステータスで、それがクールとされていた。


「全部!!!!でけえ!!!」

口に出してその興奮を吐き出した。
僕はこの時、日本の事なんかすっかり忘れていたはずだった。

その後、しばらくの間、大袈裟ではなく、飽きる事なく見るもの、触れるもの全てに感動していた。

見たことのないフレーバーのドクターペッパーシリーズ、コンビニで2L近く注げるジュースサーバー、レジ待ちの間にチップスを粗雑に開封して食べ始めるローカル達。

本場のデニーズに入って、当時よく聴いたBen Kwellerが有線から流れているのに気づいて、人知れずうるうるときてしまった事なども。


ところが、アメリカの滞在が2週間を過ぎた頃、熱を出してしまった。
時差ボケもずるずると長引いていたから、睡眠不足のせいで免疫力が下がってしまったのだろうと思った。

「せっかくの時間が勿体無い」と連れに不満をこぼされつつ、味気ないオートミールを少しだけ啜った。

この時、急激に日本食が恋しくなった。
あったかいかけうどんが食べたかった。
薬味を多めに乗せて、七味を一振り掛けたやつが猛烈に。

味を薄めに、だけどしっかりと出汁の効かせた雑炊でもよかった。
卵は粗めにほぐして、食感が残っているのが好みだ。
くたくたになった根菜の甘みと出汁の旨味が相まって、結局食べきるまでレンゲの運びが止まらないやつ。

それまでの2週間で旨い旨いと唸りを上げたIn-N-Out-Burgerや、メキシコ移民系の知人が紹介してくれたローカルに大人気のブリトーを頬張った時の感動が実感として蘇ってこないばかりか、この時ばかりはまた食べたいとすら思えなかった。

自分が日本人である事を、日本の外で強く実感した初めての瞬間かもしれない。体の芯まで染み込んだ故郷の味を、細胞レベルで身体が欲するのを聞いたのである。

結局、このアメリカ旅行中、一度も日本食を食す事はなかった。
連れも回転寿司屋があるから行こうと誘ってくれたのだが、日本に帰ればいくらでも食べられるものをアメリカに来てまで食べるのはもったいない、と断固として拒否したのであった。

かくして旅の終盤では、日本に帰ったら何を食べるかの話で持ちきりだった。

結局、僕らは帰国後に成田空港にある蕎麦屋に入ることに決めた。
暖簾をくぐってすぐ、揮発した芳醇な旨味が鼻腔をくすぐる。
一種のエクスタシーと表現しても大袈裟ではないほどの多幸感が押し寄せた。

あとは言わずもがな、着丼した「天盛りざるそば」を無我夢中で啜った。

アメリカに行く前は、個人的に圧倒的脇役であった「煮出し汁」のありがたみを軽視していたけれど、この経験以降、煮物料理が好物の一つとなった。

何より、日本食の素晴らしさに感謝を抱く契機であり、物理的に何かを手放し、自身が移動する事によって、対象を外側から眺め直してみるという初めての実践から、副産物的に今に繋がるスタンドポイントを獲得出来たのは心から良かったな、と思える。


次にこれまでと打って変わり、食を紐解けば歴史が見えてくる、という点に関連しつつも少し別の話をするならば、フィリピン(以下、比国)での滞在生活が良さそうだ。

日本とは対照的に、比国には和食のような、純比国料理がほとんど無いとされている。

その理由は、比国は独立してから未だ80年弱の若い国であり、その前史には300年続いたスペイン統治や、中国系移民の流入が大きく関係していると言われていて。

君主制の存在しなかった比国では、宮廷料理などで自国独自の料理を研鑽する機会がなかったとされ、カソリックの布教を背景としたスペインの同化政策によって、調理技術から西洋的なテーブルマナーに至るまで刷り込まれた。

この為、比国料理の名前にはスペイン語や中国語の影響が色濃く残っており、歴史を専攻していたフィリピン人の親友と酒を飲むと、外国人である僕によくこういった雑種な知識を分け与えてくれた。

今でこそ比国は、僕にとってのセカンドホームと呼ぶ事が出来るけれど、渡比したての頃は、立ちはだかる文化的障壁の前に度々挫けそうになったものだ。

その中でも、僕にとって最も順応に時間を要するのが食であった。

それは、食わず嫌いが過ぎるとか、衛生面が気になるから受け付けないとか、マインドセットの問題では決してなく、僕の胃腸はマンボウほどに弱いのだ。(マンボウは胃腸が弱い為、お腹をすぐに下す。水族館などで飼育されている場合は餌に胃腸薬を混ぜてあげるほど)

なので、好奇心旺盛に食膳に並んだものは体内へ放り込むのだが、その後の始末を自分で拭う必要があり、何とも骨が折れる。

何だかんだ、身体が比国の食事や環境に慣れるまでに6ヶ月ほど掛かった。

理由は全く明らかでは無いが、恐らく原因は「水」であったと推測する。

比国の水道水は飲料用では無い為、ローカルでも蛇口から注いだ水を口にしないのだが、スープなどで大量に水を要する時は沸かした水道水をそのまま使う。

また、生肉は水で綺麗に洗ってから調理する必要がある為、知らず知らずの内に大量の水道水を身体に取り込んでいた、という事になる。

それまでは綺麗に浄水された水だけを口にしていたから、元々胃腸の弱い僕に抵抗力が備わっているわけがなかった。

苦節半年の間、急性胃腸炎のハズレくじを3回ほど引いたりもしたが、腹の調子に悩まされることがそれ以降はもうほとんど無くなった。

都比当初は味気ないと思っていたフィリピン料理に対する印象も、ローカルの正しい食べ方を学び、地元に根付く美味しいと評判の店を食べ歩く事で180度変わった。

珍味・妙味の盛り合わせで、ご飯のおかずとしても、お酒のお供としてもとてもバラエティに富んだ食の部類であろう。

恐らく、これを読むほとんどの方がフィリピン料理の味と言われたところでパッとイメージ出来ない、或いは食したこともないだろうから、以下に少しだけ補足したい。

東南アジア地方でも、地理的にインドから離れているといった理由から、タイやインドネシア料理に比べると香辛料を多用せず、控えめな味付けにまとまっている。

つまり、先行するイメージとは反して、辛すぎたり、香草の匂いがきつ過ぎるようなことはない。

むしろ、「素材を感じる味わい」と言い換えても良いだろう。

このため、最初は味付けが薄いと感じるのだが、フィリピン人はここから更に卓上で調理した各々のつけ汁でもって自分好みに味を仕上げていく。

サウサワンと呼ばれるそのつけ汁は、基本的にはフィリピンの醤油(日本の醤油と味が異なる。塩分よりも少し甘さが前に出た味。)、カラマンシーという柑橘類の一種、トウガラシを混ぜて作る。

庶民食堂(カリンデリア、トロトロと呼ばれる)やレストランに行くと、基本的に醤油差しのような小皿と、上述したカラマンシーとトウガラシが取り放題となっている為、ほぼ必ずこのサウサワンを作ることからフィリピンの食事は始まる。


僕の大好物もついでに紹介しておくと、Pinikpikan(ピニクピーカン)という。

ルソン島の山岳地域で名物となっているこの料理は、地鶏を香ばしく焼いた後にスープにする。粒コショウ、にんにく、生姜をたっぷりと入れたスープは、匂いから食欲を刺激する。一緒に煮込まれたハヤトウリとペチャイ(青梗菜に近似している)は鳥の旨味をよく吸っていて、これだけでもご飯が進む。

更に本格的なピニクピーカンの場合は、塩の代わりに塩漬けにした豚肉を使う。Etag(イタッグ)と呼ばれるこの肉を入れると、地鶏の旨味に熟成した豚肉のコクが混ざり合う。

僕のような辛党は、カラマンシーとトウガラシだけでサウサワンを作っておき、辛みが欲しい時はディップしたりしながら食べる。

美味しさのあまり、気づけば毎度あっという間に完食してしまっていた。

この他、書いていて気づいたが、僕の好むフィリピン料理は汁物が多いようだ。

日本食を通して、出汁とずっと共に在り、生かされてきたことを考えればこの結びつきは必然なのかもしれない、とも思う。

また、「食材を無駄なく使う」というマイナールールが日本とフィリピンで共通していた事も大変調子が良かった。

モツ焼き片手に酒を飲みたければ、そこかしこで商い中の露店に行けばIsaw(イサオ:鳥、豚の腸)やレバーのようなChicken blood(そのままだが、鳥の血をボックス状に固めて焼いたもの)を買えばそれなりに満足出来た。

飲んだ後のシメが欲しければ、牛の内臓を細かく刻んで酸味の効いた味付けにしたSinanglaw(シナングラオ)か、Bulalo(ブラロ:牛のスネ肉と髄を野菜と一緒にじっくり煮込んだスープ)が定番だ。

がっつり白米まで平らげれば、フィリピンの定番酒であるサンミゲル・ジンをたらふく飲んでいたとしても、翌日に残る事もない。



・・・・・・しかれども。


それでもやはり、日本の焼き鳥や焼き豚を恋しく思わなかった日はなかったのである。

いくら外国の食生活や食文化に適用しようにも、日本人の僕にとってのスタンダードは日本食であり、また、現在に至るまでも、それが超えられない壁として君臨している。

今後、その壁を揺るがし、ついにはスタンダードを刷新するような食との出会いがあるかもしれないが、「星を数うる如し」とも言えば、「我が上の星は見えぬ」とも言ったりするので、結論を急ぐのは止そう。


そう言えば、つい最近、姉が新生児を連れて里帰りしてきた。

最後に新生児をこの腕に抱いたのは、従兄弟が生まれた時だったと思うから、もう20年ほど前の事になるのか。

久しぶりに抱く赤子は、知っていたはずのそれよりもやや小さく感じた。

泣く事で自分の “したい・して欲しい” の全てを表現しなければならないなんて、とても難儀だなあと思う。

大人だって泣く事はあるが、泣いたとしても、長くて数分だろう。
これが数時間泣いたものなら、きっと疲弊しきって何も手に付かず、仕事に行くどころか、休暇を取る必要だって出てくるかもしれない。

だが、この人間の片鱗をまとった極めて動物的な生命体は、1日に5時間ほど泣く事もあるという。

仮に、赤子に幼児期健忘がデザインされていなかったとしたら、誰しもこの時の記憶を思い出す事で、その後の長い人生で起きる大方のイベントは乗り越えられたかもしれないな。

目の前で哺乳瓶に凄まじい勢いで吸い付いている甥っ子を眺めていると、この時から既に僕らは「旨味」を感じているのかもしれないと、ふと思った。

授乳する側である母親が口にした物が母乳の元となると考えれば、物事の道筋としてもそうは違わないだろう。

「故郷の味」たるものが赤子の時には既に備わったとして、それが忘れようもない美しき原風景と同様に、いつまでも反芻されるからして恋しがるのだとすれば、もう美味しさの尺度は既にどうでも良い話だな。

それより、世界共通で生けるものは生きるために食するのだから、「世界共通料理」を世界中の料理家が腕を組んで発明した方が、案外世界平和への堅実な一歩となるのかもしれない。

こんな事を考えている内、いつの間にか甥っ子が僕の腕の中で眠りへと戻っていた。

穏やかだけれど、確かに発光して見えるこの輝くエネルギーは、いつの時代も変わらない希望の象徴に違いなさそうだ。

気付けば、僕の腹も鳴り始めた。

今日は出来立ての白米にハムエッグを乗せて、半熟の黄身を崩してから醤油を垂らそう。

それでは、いただきます。


Written by 成

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