"新しい地図を作成"

薄暮 -玉-


深夜の住宅地に囲まれたささやかな一軒家の縁側で、5人の男たちが集まって話し込んでいる。

その中心に置かれた七輪、その上にはまだ幾つかの椎茸や牛肉が残っており、自分に目もくれない男たちを呪うように油を落としていく。

「お前はもっと刺激的な環境に身を移した方がいいんだよ」

そう語る男は射抜くような目線を投げ、射抜かれた男は涙ぐんで、残りの3人も静かに頷く。

ヒートアップする「今、俺たちはどう生きるか」というテーマは、際限なく縁側に火をくべ続ける。気づけば椎茸も牛肉も干からびてしまっていたのに、もはや火を絶やそうとする者がいるはずもなく、ついにまた、射抜く男が涙ぐむ男に激励を飛ばした。

「もっと俺は……!」

「あなたたち、何時だと思ってるんですか。警察を呼びますよ~。」

突如聞こえた老婆のか細い声に、全員が目を見開いた。え、2時じゃん。同居人Yが「明日早いんで」とだけ言って部屋に戻り、同居人Kが「中に入ろう」と呟き、涙ぐむ男の眼球は一瞬で椎茸ばりに乾き、射抜く男は床で寝た。

僕は、石ころのように硬くなった牛肉を口に放り込みながら、バツの悪さに身体が燃えた。「明日菓子折りを持って謝りに行こう」と同居人Kが言うので、重い頭を縦に振って、眠りについた。

明くる日、仕事から家に戻ると、Kが笑顔で待っていた。

「大丈夫だった。」

僕は心底ホッとしながら、それで初めて隣家のおばあさんに関する話をゆっくり聞いた。Kはこの家に誰よりも長く住んでいるから、僕よりもご近所さんのことをよく知っていたのである。

「隣の男の子も大人っぽく見えるけど、この前話したら20歳なんだって。でも中学校からお姉さんと住んでたらしいから、俺よりよっぽど先輩だったんだよね。名前はね、これもまた意外なことに……。」

よくもまあ、こんなに周辺情報に詳しいものだ。普通に生活していたら挨拶こそ交わすものの、年齢や名前を聞く機会などない。Kのバイクが故障したとき、一緒に“押しがけ”を手伝ってくれたのがきっかけらしい。初めて聞く単語だが、共同作業が人の仲を深めるというのは腑に落ちた。

また明くる日、ギターを持って玄関を出ると、「こんにちは」と元気よく声をかけられた。昨日話に出た青年がバイクを洗っている。いつもなら挨拶を返すだけだが、右手が勝手にイヤホンを外し、自然と口が開いた。

「あの、“押しがけ”、ありがとうございました。」

アア! と張りのある声を出して笑う。

「全然です。バイク直りました?」

「はい、おかげさまで直ったみたいです。」

「良かったー。ギターやってるんですか、カッコいいなあ。」

「いえいえ、バイクに比べたら。」

気恥ずかしさに袖を引かれるがまま、軽く別れの挨拶を済ませてイヤホンを耳に戻すころには、得体の知れないぞくぞくとした感情が全身をめぐった。

子どもの頃、「行けるところまで歩いてみよう」と、友人に誘われるがまま道を歩き続けたことがある。当時の僕は自宅と小学校、それと友人の家までの道路を往来する以外に、道を知らなかった。

通らなくてもよい道、その上を歩き始めたときの緊張感は、海水浴や秘密基地の楽しさを優に越えていた。いつも親の車で通る見知った道には、車窓には映りきらなかった木々や家々が並んでおり、移動の方法や速度によって、まったく世界の見え方が変わることを教えてくれる。

どこまでも伸びてゆく影が、まだ僕が知らない道の向こうに差し掛かった頃、すっかり無言になっていた友人が歩みを止めた。

「帰ろう。おかあに怒られる。」

夕闇に追われるようにして帰路を走りながら、僕は初めて、頭の中の地図にその道を刻み込んだ。

そのときと同じ感情を、バイクを洗う音を背中で聞きながら思い出した。現在の自宅が住宅地の中にあることは、平面では理解していたが、ようやく立体として理解できるようになったとも言える。

そういえば最近、ドキュメンタリーをよく見るようになった。

創作物のイマジネーションに没入する悦びも忘れはしないが、ときに作中に生まれるカタルシスは、現実に戻された自身を疲弊させる。その点ドキュメンタリーは、撮影者の意図が介入することは避けられないが、誰かの現実をありのまま享受できる。慣れない運動による知らない筋肉疲労、とでも云うような鮮やかなる快感。

ドキュメンタリーの隆盛を信じてやまない友人は、「情報に溺れる現代人は、遠くの物語を眺めるより、隣人の生活を覗くことを望んでいる」と語った。

実はみな、平面の地図を見飽きているのかも知れない。ほんとうは、自分の地図に立体的な街角が増えていくことを望んでいるのではないか。

仕事から帰ると、Kのバイクの隣に青年のバイクが停まっており、ハンドルに吊るさった黄色いヘルメットが揺れていた。

_______________________________________________

夜半 -成-

人はなぜ山を登るのか。

命を賭してまで目指す山頂には、どんな意味があるのだろう。

「メリットがない苦労を継続する根性がある登山家を、敵にまわしてはいけない」

これは某著名人が展開させていた冗談交じりのトンデモ論なのだが、一般的な感覚では決して測れない尺度が間違いなく、そこには存在する。

未踏の地を目指す、または新ルートを開拓するという意味での登山は、引き際を間違えれば死に直結する。

サバイバル登山家として有名な服部文祥氏は、彼の師であり、同じく登山家の和田城志氏の「ぎりぎり失敗した登山が一番おもしろい」という意見に賛同しつつも、「そういう真の登山は決して持続可能な行為ではない」というコメントも残している。

生きるか死ぬかの限界を進むような冒険を続ければ、いつかは死んでしまう。
そう分かっていても歩みを止めないのはなぜだろう。死への恐怖にも勝る原動力とは。

彼らを突き動かすのは、使命かヒロイズムか。動機付けは人それぞれ違うだろうから、そういう俗っぽい登山家がいたとしても全く不思議だとは思わない。

あるいは生死のギリギリを攻めることでもたらされる、私は今生きているのだ、という充足感だろうか。つまり、登山や冒険という行為自体が生きる意味として存在する。
これもよくある話で、かつては僕にとっての旅もこの意味だった。

第三の仮説として考え浮かんだのは、彼らは山頂または目的地を場所として経験することで、世界というこの空間の新しい意味を発見しようとしているという可能性だ。

誰しも生まれた時は何も知らない赤ん坊として、この世界に放り出される。
生まれてしばらくは、この世界に意味など存在しないため、僕らは漠然とした空間の中を運動する生命体としてのみ存在する。

やがて知性を獲得し、肉体的な経験に伴ってこの巨大な空間の中に場所が増えていく。それはテーブルやイスでもあるし、両親でもある。

広大な地図を想像してみれば理解し易いと思う。あなたが生まれた時、あなたという滴が地図に一滴落ちる。そこに出来たシミがあなたで、残りは世界なのだ。

成長するにつれて、その地図には際限なく加筆が施される。まずはあなた自身、家族、親戚、友達、友達の家・・・。
このように無限に概念化された場所が点在しているからこそ生きることに迷わない、と言い換えることも出来る。厳密に言えば、意味と意味の狭間で迷子になることはあっても、基本的にはこの無限の場所が、生まれてから死ぬまでの一生における案内板のような役割を持つ。

1日が流れる間にすれ違う全ての人たちは、ある場所から次の場所へと運動しているわけで、この世界という巨大な空間を意味もなく彷徨っているわけではない。

だからこそ 、自分の知らない場所というのは怖いのだ。未だ経験したことのない場所は空間で、そこには自分が理解出来るものがない。どこに向かえば良いのかが分からない。

そして未踏の地を目指すという行為は、これらの場所を極限まで排除した純度の高い空間をあえて目指す行為に近いのではないか、というのが僕の考えである。

この結果から何が分かるのかは、登頂を極めた者のみにこそ知る機会が与えられる。伝記を読んだとて、知的な経験と肉体を介する経験では性質が異なるため、突き詰めれば不足する方を他方で埋め合わせをすることも難しい。

あなたが例えば架空のA国に大変興味があり、常日頃からそれらについての読書や勉学を趣味としているとしよう。あなたは多岐に渡る知識を用いて多彩かつ雄弁にそれらを語ることが出来る。

片や一方で、僕はその架空のA国に生まれ育ち、東西南北を旅しながら暮らしている。歴史は大の苦手科目だったので自国の歴史にすら疎いけれど、少数民族の生まれで、出稼ぎに街へ移り住んだ友達と毎週末にライブバーで酒を飲みながら熱く語らう時の事や、最南端の街で一番美味しいと評判のレストランが、値段こそ高い割りに実はがっかりするほど平凡だから観光客しか来ず、ローカルは海岸沿いにぽつんと佇む、独身で歯がほとんど残ってないおじさんが経営している海鮮料理が抜群に美味い食堂に集まる、なんてことを血走った目で勢いよく話すことが出来る。

僕とあなたが持っている地図は同じ国を示しているはずでも、詳細が全く異なる。どちらの地図も間違いではないし、この2つが混ざり合えばより多角的な地図になること請け合いだ。

登山家のように命を賭けて世界という空間を再定義することは僕ら凡人にとって極めて難儀だが、少し場所から離れて空間に身を置いてみる、そこから今までとは違う意味を再抽出してみるという試みは東京のような大都市に住む現代人にとって必要なのではないか、と思う。

無造作かつ乱暴に肥大していく無機物の塊に囲まれて、いつしか自分がそれらの間を半永久的に跳ね返るだけのピンボールになってしまわないように。

僕は今日も寒空の下、クロスバイクを走らせてこの街の新しい名前を考えている。

_______________________________________________

東雲 -流-


以前、玉と成との会話で、自分の語りを「雲を掴む」と表現したことがある。この隠喩は、拡散する思考に身を委ねて話し込んだときに、編集者の友人と私がよく口にする言葉だ。抽象思考にとどまり、天を仰ぐ自分たちを戒めるときに使う。

ウィトゲンシュタインに言わせれば「語りえぬものについては沈黙しなければならない」ということだろう。彼に気に留めてもらえるほどの内容ではないけれど。

「雲を掴む」「語りえぬもの」について思案するときによみがえる記憶は、ある場所にある期間だけ集まり、不思議な光(当時の私にはそう映った)を放った共同体のことだ。

その共同体は、見渡す限りの荒野になった海岸沿いで、唯一、大津波に耐え一棟だけ残った建物に20代前後の若者がどこからともなく集まってできた。

震災の教訓と原発30km圏内の真実、そして地域の魅力を現場から発信するという共通目的を持っていた。

全て手作りで、水さえなく、なにより寒かった。しかし、不思議な肯定感と夢と希望で満ちた場所だった。あの場所で見上げた星空は、きっと死ぬまで忘れはしないだろう。みんな、夢中だった。その熱量に惹かれ、次第に協力者も増え、最後にはNHKの取材やCM依頼が入るまでになった。

しかし、国からの要請で共同体は突然の解散を余儀なくされた。中心人物ではなかったがひどく落胆し、やり場の無い気持ちになったことを覚えている。

その存在の社会的な輪郭を捉えたのは、少し後になってからだ。当時の役人や、一歩引いたところから見ていた人たちとの交流を経て、徐々に分かった。当時は夢中で見えていなかったが、その膨大な熱量ゆえの摩擦や尖りすぎていた部分もあったことは認めざるを得ない。

それでも、異文化を理解しようと努めたこと。何かを掴もうと足掻いたこと。他人に受け入れてもらったこと。その記憶は、何ものにも代え難い価値がある。特に共同体の中心にいた佐藤という男の姿勢には尊敬できる部分が多く、印象深い。


10年後の今年、更地になったその場所をご縁があって訪れた。そこでストンと腑に落ちたことは、当時あの場所は、自分にとって夢や希望ではあったが、現実と地続きの理想ではなかったということだ。まさに、雲を掴んでいた。

たしかに、あの時の自分は、夢や希望と共に戦う相手として他者を据えてしまっていた。そして東北から帰り着く先は、福島からの電力と奨学金に支えられている東京の新築アパートだった。

あの共同体に関わっていた時の自分は、少しでも自分本位の充足感を欲しがっていなかっただろうか。掴んで離したくなかったものが、自己欺瞞の中の希望や夢ではなかっただろうか。やはり、顧みるべきところがある。

実は、その場所が終わると知ったとき、少しだけほっとしたことも告白しなければならない。全員がこの先、眩い光を放つこの場所からはい出て、結局はたったひとりで歩いていかなければならない日が来ることを、心のどこかで分かっていたからだろう。だとしたら、一人また一人と離れていくのではなく、強制的に幕が降りたことで、心に多くの隙間を作らずに済んだのかもしれない。

集まった友人たちにとって、あの場所が夢だったか理想だったかは、本人たちにしか分からない。しかし、あれだけの熱量を注いで創りあげた場所が理不尽に消えてもなお、福島に残って農家との交流や現地の情報発信に従事した佐藤にとっては、あれは夢ではなく理想だったのだろう。

自分に限っていえば、未熟な少年がまずやるべきだったことは、現実をしかと見つめ、自分自身の理想を見つけることだった。つまり、やるべきことは己との闘いだった。

一方で、あの頃は尖っていた分だけ、現実に溺れた大人もどきの「現実をみろ」という呪いも嫌になるほど聞いた。今でも理想と夢を一括りにした大人もどきが夢を追う人に「現実を見ろ」と、言って聞かせる光景を見ることがある。

しかし、時折その大人もどきが「現実を見ろ」と諭しているその相手は、夢ではなく理想を持って地平を見つめている本物の大人の場合もある。年齢はもちろん関係ない。

夢だけをみて現実ばなれしている当時の私のような人が子どもなら、現実に溺れて理想を掲げず、それに情熱を傾けられない人もまた、大人になり損ねた子どもである。

夢と理想が一緒くたにされ、理想と現実は二律背反のように語られることも多いが、辞書を引けば、現実が持つ確かさを持たない夢と違って、理想には実現可能な最高の状態という意味も含まれている。

その前提に立つのであれば、夢と理想は決定的に違いがある。理想と現実は出逢うことができる。

大人が大人たる所以は、現実に溺れることなく、夢をみて天を仰ぐのではなく、地続きの理想を実践の中に生きて、その地平を見つめ続けることだろう。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?