ゴキブリを食べた日 -1月テーマ 「食について」
タイトルを見た時に「うわ、嫌だな」と思った人へ。そんな人にぜひ読んでいただきたい。なぜなら私もそう思うからだ。
そいつは油でこんがり揚がっていた。素揚げなので味付けはなし。もちろん、姿かたちはそのままだ。恐る恐る、だけどかじる勇気はなくて、一気に口に放り込んだ。香ばしい。外側はエビの尻尾を軽くしたような食感で、中は柔らかかった。少しクセはあるけど、こうじ味噌に似た味がする。
すでに持ってしまっているイメージを出来る限り忘れて味だけを評価すれば、そんなに悪いものではなかった。だけど、もちろん気分は最悪。そして、少しの達成感が残った。
その日、私は友人が開催する闇鍋の会に招待された。彼は東急東横線の日吉駅から少し離れたところに、理解者の女性と大好きな虫たちと暮らしている。
いつどこで出会ったのか忘れてしまったけど、真冬の南禅寺で夜を明かしたり、京都大学の吉田寮に潜入したり、横浜から海まで歩いたりと、彼との遊びはいつも実験的で幼い頃の楽しかった時間を思い出させてくれた。出会った頃から虫と地球への愛を熱っぽく語り、そのスタイルのまま彼女ができたときは、少しだけ羨ましくもあった。
彼の家まで、初の海外で訪れたバンコクの夜を歩くような気持ちで向かった。
家に着くと、本番の闇鍋の前に食用の虫の試食会が始まっていた。挨拶をすませて、手渡されたアサヒビールをのみながら一息つく。すると、すぐにお皿にのったミルワームの素揚げがまわってきた。友人から入手経路や衛生面、味に至るまで話を聞いてはいたが、実物を目の前にするとやはり気後れする。
観念して食べてみる。うまい。これは完全にポップコーンだ。
慣れた感じで二匹目を食べると、友人がゴキブリを食べてみるかと笑いながら提案してきた。時間が止まる。出がけに自分に課した、何も断らないというミッションを思い出して首を縦に振った。正直、この会の誘いがあったときに覚悟はしていた。以前から彼がゴキブリが好きな話は聞いていて、食べたい気持ちは全く起きなかったけど、理解できないことへの興味として自分の中にずっと居座っている話題ではあった。
友人が楽しそうに説明する。アルゼンチンの森に生息する種類で、界隈では食用としてマダガスカルのやつと同等に有名だという。食用に衛生的に育てたものらしい。
正直、アルゼンチンの森なら大丈夫か、とはならない。界隈とは。マダガスカルのタイプももちろん知らない。衛生的という言葉の意味を反芻する。
脳内が騒がしく動いている間に、あいつが運ばれてきてしまった。
「あすこはちょっと汚いけんね〜」
近所のラーメン屋の話題になると、母がそうやって批評するのを何度か聞いたことがある。ただ、そのラーメン屋は今でも人気で今日も営業している。
自分がとても衛生的に(日本的にきれい)育てられたことに気づいたのは、親元を離れて色んな人と寮生活をはじめてからだった。ただ、まだその時はスポーツ軍団の集まる寮だったし、男子寮でもあったので、こういう集団はこういうものなのかくらいに感じていた気がする。それが確信に変わったのが、大学の一人暮らしで男女問わず他人の家に遊びに行くようになってからだった。
一人暮らしの当時の自分の家は、潔癖症ではないにしろ基本的にいつも整理されていたし、水回りも綺麗で頻繁に掃除していた。もちろん食事の質や食べ物、調味料の管理にもとても気を使っていた。それが自分の世界では当たり前だったからだ。
「ズルズル」
その青年は初めて食べたカオソーイに感動していた。
アユタヤを出発し、長距離バスで北に移動してきた。不可解なほど冷えた車内がとてもこたえた。バックパックを宿において、近くを流れる川沿いをひとり寂しく歩くと、きれいなタイ料理屋が目に入った。
旅の予算を考えると普段入らないクラスのレストランだったが、疲労と空腹が勝り、吸い込まれるように入店した。対岸にある寺院がライトアップされてオレンジ色に輝いている。頼んだカオソーイもきれいなオレンジ色で、温かいスープと馴染みのあるカレー風味で青年はとても嬉しい気持ちになった。
「ズーズー」
幸福ではあったが、食事の途中で青年は店内の他人の視線に居心地の悪さを感じていた。初めは日本人だから物珍しいのだろうと気にしなかったものの、いつもの好奇の目でみられる感覚とは少し違う気がする。ここはチェンマイ。タイでも有数の観光地で、色んな国からやってきた旅人で賑わう街だ。地元の人もたくさんの外国人をみてきたはずである。
「ズルズル」
食べながらも、注意深く周りの人の反応をみていて青年はついに答えにたどり着いた。麺をすする音にみんな反応している。しかも、その反応には嫌悪感が滲んでいた。
行儀に人一倍厳しい家で育った青年だったが、麺を啜ってはいけないと教えられたことはなかった。だけど、たしかに、麺をすするのは日本の独自の文化だとどこかで聞いたことがあるような気もする。
なんとなくだが心当たりができてしまった彼は、そそくさとお金を払い、申し訳なさそうに店を出た。
味わって食べるという行為は、とても分かりやすいと思う。五感を通して自分の中に何かを取り込む行為の中で、一番直接的だからかもしれない。見ることや聞くことも情報としては何かを自分に取り込む作業ではあるけど、味わって食べる時には自分以外の物質が実際に体内に入る。そういう意味で、とても分かりやすい。
友人の家でゴキブリを食べることに挑戦した当時の私は、今までの世界から外に出るキッカケを求めていた。今まで無意識に継続してきたもの、または積み上げてきたものを壊す必要があると感じていた。それはある種、少年が大人になるためのイニシエーションのようなものでもあった気もする。
それまでの私は、今までの自分の常識に彩られた世界はこれからもずっと続いていくと信じて疑わなかった。しかし、旅や震災のような圧倒的な質量と規模で外側の世界が激しく動いたとき、自分の世界にヒビが入り、隙間ができた。恐る恐る外を覗いてみると、そこには自分の持っている世界とは違う価値観やルールで動いている別の世界が広がっていた。
すごく抽象的な表現に聞こえるかもしれないが、この類のストーリーは映画や小説、漫画でよくあるので伝わる思う。こういうことは現実にも実はよくある。
ただ、それは自分のいる世界を新しくみえた世界によって否定することではなく、まだみぬ世界が人の数だけ同時に存在をしているということに気づくということ。そして私はそれを分かりたい、どちらも大事にしたいと思った。
それに気づいた後、隙間をから外の世界を覗くことが多くなった。隙間を通して見聞きすることで、昔よりも外の世界を分かってきたつもりだった。しかし、隙間から外に抜け出るには何かがまだ足りなかった。なぜなら、その間も自分のいる世界は何の滞りもなく居心地よく進んでくれていたからだ。
考えた。じっさいに外側の世界に自分を放り出す行為ってなんだろう。見ても聞いてもダメなら、もっと具体的な行動を起こさないといけないと思った。それが、食べること、触れることとだった。そんな機会を求めていた。
当時の行動をそんなふうに解釈している。
そんな時に友人が誘ってくれたのがその闇鍋の会だった。そして中でも一番分かりやすく自分を外の世界へ放り出してくれるのが、ゴキブリを食べることだった。だからこそ、あの時の私は食べずにはいられなかった。ゴキブリじゃないといけなかった。それがよく見るやつとは違って、ちゃんと食べられるという最低限の前提はもちろん必要だったが、最高にイメージが悪いゴキブリを先入観にとらわれずに食べることは、当時の私にとって、それまでの自分の世界から自分を放り出し、違う世界も生きてみるということにほかならなかったんだと思う。
私の世界では、麺はすすって食べるものだったし、虫は決して食べ物ではなかった。きっとあの時母に電話してゴキブリを食べてもいいかきいていたら「なんで。馬鹿じゃないの。やめなさい。」とかえってきたと思う。
食べたあとの世界が今までと全く違って見えたかというと、もちろんそんな事はない。でも、その日から自分の世界とは全く違う価値観やルールで回っている世界を知識としてではなく経験として知っていることで、できるだけ自分ごととして想像することができるようになった。
食に関しては、いちど自分を放り出した外の世界から隙間を通じて自分の世界に戻ってきた。
もう一度やつを食べるかと言われれば、必要がなければもちろんノーだ。
食というテーマについて書くことになったときに、難しいと思った。あまり食に対して意欲的ではないからだ。好き嫌いはほとんどなく、最近はさらにこだわりが消えた。もしかしたらそれは、何不自由なくご飯が食べさせてもらってきたからかも知れない。もちろん、生まれつきの可能性もあるが、欲がないのは欲に満たされ続けてきたからということもあるだろう。
そこで今回は視点を変えて、自分の人生で最もインパクトのある食について考えてみた。本当はこんなにとっつきやすい日常テーマなのだから、もっと日々の暮らしを食という切り口から何気なく素敵に書き上げたかったが、それは宿題にしたい。
私に機会をくれた友人はその後、純粋に虫や地球を愛し続け、その後も昆虫食一本で今に至っている。最近はTVに出演したり、有名ラーメン屋とコラボしたりと大忙しになり、全然会えていない。現在、彼は東京で昆虫食レストランを営んでいる。情熱という言葉を聞いたときに、真っ先に思い出す友人の1人だ。
最後に友人と私の好きな岡本太郎の言葉を。
人生は「積み減らし」だ。
人生は積み重ねだと誰でも思っているようだ。
ぼくは逆に、積み減らすべきだと思う。
財産も知識も、蓄えれば蓄えるほどかえって人間は自在さを失ってしまう。
過去の蓄積にこだわると、いつの間にか堆積物に埋もれて身動きが出来なくなる。
人生に挑み、本当に生きるには瞬間瞬間に新しく生まれ変わって運命を開くのだ。
それは心身とも無一物、無条件でなければならない。
捨てれば捨てるほど いのちは分厚く純粋にふくらんでくる。
今までの自分なんか、蹴とばしてやる そのつもりでちょうどいい。
Written by 流
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