[超短編小説] 今夜はお風呂には入らない
お腹の中央より下、その奥の奥が時々ぶわっと熱くなる事がある。
生理かと疑うような少しの重み。少しの脱力感。少しの酔い。そして誰にも言えない、言う必要が無いくらいの少しの背徳感が広がる。
「優ちゃん、どうしたのぼうっとして」
「ううん、何でもない」
私の向かいの椅子に座って、私の手で遊ぶ小夏は笑う。
少し開いた教室の窓から人の焼けたような匂いが流れ込んでくる。
「うわ、何これ臭いね」
「人の焼けた匂いみたい」
「えぇ、優ちゃん物騒な事言わないでよ」
窓を閉めようとする小夏に、暑いからまだ閉めないでと手で示す。
もちろん人の焼けた匂いを嗅いだことはないけれど、多分焼けたらこんな焦げた匂いなんだろうなと思う。
「何だろうねこれ」
「多分、黄砂じゃない」
「へぇ、どこから流れてくるんだろう」
粉っぽく黄ばんだ空を睨みつける小夏の横顔は、丸くて幼くて可愛い。背も小さくて、ぽわぽわした動きは小動物みたいだ。今年の学校祭でも、きっと何人かの男子達から告白を受けるだろう。でも小夏は、毎年全てに断っている。
「小夏、カルピスのCMとかに出てそう」
「えー、優ちゃんはエビスって感じかなぁ」
くだらない話、どうでもいい話。大切な話が出来ないまま、大切な人との時間は静かに流れていく。
「エビスって、ビールじゃん」
「だって優ちゃん大人っぽいから」
私はカルピスかぁと、彼女は笑いながら横に置いてあったペットボトルを手にとって
「あ」
「あ」
カルピスのパッケージを二人で指さして、ケラケラ笑った。
「ネタみたいだね、タイミングぴったり」
「あんた、さては仕込んでたでしょ?」
「あははっ、違うってばぁ」
私の肩を叩く小夏の手がいつもより湿っぽいような気がして私は、小夏に気付かれない程度に椅子から身体を引いた。ちらっと彼女を見ると、また窓の外を睨んでいた。茶色がかったふわふわの髪は、焦げ臭い風でそよいでいる。
匂いがついてしまうから縛ってあげようと思ったけれど、やめた。
「学校祭の作業の続き、しよっか、小夏」
「うんっ」
ねぇ、小夏。
私はあんたとの距離感がわからなくなったよ。
数日前の放課後。彼女の言葉はあまりにも唐突で、そのときの私は苦笑いをするしかなかった。
「優ちゃんが好き」
笑うしかなかった。私の乾いた笑い声は、自分でも初めて聞く声。
「私は優ちゃんのことが、性的に好き」
小夏は泣きそうな顔で笑った。その顔は私をじくじくと傷付ける。
よく私に触る子だと思っていた。高校に入って同じクラスになった頃から。私に抱き着くのも手を繋ぐのも、それは彼女なりの友情表現だと思っていた。
私は彼女を双子の妹のように可愛がって、私に彼氏が出来ても、クラスが離れても、クラスがまた一緒になっても、私の隣にはいつも小夏がいた。
「ご飯食べても、お風呂に入っても、優ちゃんのこと考えてる」
「優ちゃん、私のこと嫌いになった?」
「ならない」
「優ちゃん、私のこと気持ち悪い?」
「…そんなことない」
小夏が私の肩に頭をのせる時、お腹の中央より下、その奥の奥が時々ぶわっと熱くなる。ドーパミンだかセロトニンだかよく分からないけれどきっと、母性と愛情と幸せが混ざりあったような成分が全身を駆け巡り、身体の中心に集合しているんだなと思っていた。
彼女も私に触った時、同じような感覚なんだろうか。
「私は優ちゃんがずっと好き」
それとも、もっと激しいものだろうか。
「こたえは直ぐに欲しいわけじゃなくて」
「うん」
「白瀬くんと優ちゃんのことも知ってるし」
「うん」
彼氏の白瀬の顔が頭に浮かぶ。白瀬にはなんて言えばいいだろう。きっと彼には何も言えない。
「ただ、優ちゃんの傍にいさせて欲しい」
「わかった」
「いつも通りに」
「うん」
こたえが必要だとはわかっていても、何が小夏にとっての正解で、私の正解かが分からなかった。ただ、世の中の正解と不正解は何となく分かる。
全部、燃えてしまえばいいのに。焼けて、焦げて一旦、平らに。
私は段々と、彼女を避けるようになっていた。小夏だけじゃなくてクラスメイトも家族も、彼氏の白瀬のことも。私は私のいつも通り、が出来なくなっていた。
「優、最近大丈夫?」
だから廊下で白瀬に捕まった時、今までどんな風に彼を見上げていたかを、思い出せなかった。
「あーうん、大丈夫、じゃない」
「どっちだよ、それ」
怪訝そうに眉をひそめながらも穏やかに笑う。
「学校祭準備とバイトがさ、どっちも最近ちょっと大変で」
「あぁバイトもか、あんまり無理すんなよ」
私の頭に上にのった優しい手の重みで、お腹の中央より下、その奥の奥のもっと奥がぶわっと熱くなった。きっと母性と愛情と幸せに、少しの性欲と強い背徳感も混ざって私の身体の中で燻っている。
「ねぇ、白瀬」
「んー?」
「私のこと好き?」
どうしたんだよ急に、と顔を赤くする。
「ここ廊下なんだが...」
「こたえて」
「いや、もちろん好きだけども」
「じゃあ私がもし、男だったとしても好き?」
「は?...いや、男同士は流石にキモくね?」
「そっか」
すっと血が溢れ出す感覚。
あぁ、今日のこれは生理だ。ドーパミンでもセロトニンでもなかった。
「じゃあね白瀬」
「お、おい、優」
そのままトイレに駆け込む。
ポケットからハンカチに包んだナプキンを出す。広げる。貼り付ける。女として生きていくための丁寧な作業。下着についた少しの血は、いくら擦っても落ちなかった。
「...止まれ」
こんなもの、止まってしまえ。
男でも女でもない私になってしまえ。そしたら。
そしたら、なんにもキモくなんかないのに。
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