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二人だけの復讐


遠くに聞こえる轟音と、櫂が湖面を叩く音の中、暗澹とした沈黙がベレトの周りを包んでいる。彼は両手が痺れている事すら忘れ、ただぼんやりとその喧騒を聞いていた。
無力感、絶望感、虚脱感。あらゆる暗黒が身体を支配して、鼓動の音さえどこか他人事のように聞こえる。
 銃声が、遠く響いた。

 ポアズだ。理由も無く、そう確信した。

 ベレトは顔を上げる。発砲音の主を探すが姿が見えない。ベレトは震える膝を手で支えながら立ち上がって、首と目線を左右に振り回していると、風が一陣、頬を撫でていった。その風には、やり場のない怒りが滲んでいるように思えた。
 足場が揺らぎ、身体が左右にぐらりと動く。それでも目線は、確かに彼の姿を捉えていた。ベレトが乗る船の遥か後方、痩身で長身の男が、ベレトの目を確かにじっと睨みつけている。
 怒り、憎しみ、悲しみや焦り、尋常でない感情の圧力が、鋭利な楔のように少年の胸を突いてきた。彼のそんな表情は見た事が無い。いつもそよ風のように掴みどころがなく、誠実で、不真面目で、優しくて、無関心な、そんな彼の記憶とは似ても似つかない煮えたぎるような激情が、確かにそこに見えていた。

 分かってる。わかってるよ。相棒――

「船を、戻してください」
 ベレトははっきりと、そう言い放った。その声色は言葉とは裏腹に、請願と言うよりも殆ど命令に近いニュアンスを含んでいた。指揮官の男は信じられないといった表情で狼狽し、同船している仲間達からは、呆れ混じりの罵声が上がった。しかしどれも力が無い。疲れ切った腹から搾り出すようにあがる汚い言葉の数々は、ベレトの髪の毛1つも動かせない。
「このまま……帰るわけには行かない。まだ、アイツを迎えに行けてないんです」
 誰かが投げつけた銃弾が、ベレトの額に当たって湖に落ちる。鉛の弾は非常に重く、普段の彼ならその場にしゃがみこんでいただろう。だが、今の彼は微動だにしていない。
 船に乗る男達が少年に掴みかかる。あるものは拳を、あるものは銃床でもって彼の身体を殴打し、自分の怒りと恐怖を、まるで全て彼の責任であるかのようにぶつけていく。やがて少年の小さな身体は持ち上げられ、船の最後尾へと運ばれた。もはやひとつの怪物、狂騒と狂奔の獣となった男達は、軽々と持ち上げたベレトの身体を、広い広い湖面目がけて投じてしまった。
 少年の小さな身体が湖面に落ちるその一瞬、焼け付くような熱い風が駆け抜けて、悲鳴を上げるように吹き上がった水しぶきが男達に降り注いでいく。

 少年は知っていた。彼の力を。彼が嫌いな、彼自身の力を。

「ベレト!」
 ポアズの細い身体が、まるで弾丸のように湖面スレスレを駆け抜けていく。彼は背中に羽を生やすでも、何かを燃やして推進力にするでも無く、ただその身一つで風と一体になっていた。彼の体の回りには空気が握って掴めるほどの密度で密集し、空中を切り裂くように突き抜ける。
「相棒!」
 ベレトが彼の名前を呼ぶと、その身体は湖面スレスレのところで持ち上がり、彼の身体はポアズの腕の中に収まった。耳を切り裂くような音を立てて、つむじ風が殺到する。二人の身体はふわりと上昇してから、湖畔へ目がけて滑空を始めた。ポアズの防寒着の向こうから燃えるような体温が伝わって、その熱い体臭とともにベレトの思考に滑り込んでくる。
 着地、というより衝突に近い衝撃で地面とぶつかった二人は、まるで水を切る石のように跳ねながら別れ、それぞれ砂利と砂の土煙を上げながら10メートル以上転がっていった。うめき声が叫びに変わり、それはすぐに雄叫びへと変わる。二人の“男”はそこに立ち上がり、よろめきながらも歩き出す。
「いってぇなクソ!馬鹿野郎!この野郎!」
「うるっせえなクソ!文句言うならテメエで飛びやがれ!」
 ベレトの拳がポアズの腕に当たって、ポアズの平手がベレトの頭頂部を叩く。それでも二人はよろよろとした足取りで前を向き、足場の緩やかな斜面を踏みしめる。
 勝算は無い。それは二人とも分かっている。

 それでも秘策は、秘策ならある。

 少年はそう言う。
 相棒は――

 笑っていた。

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