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550円の習字セットと、一本の線。


最近は、夕ご飯時に散歩している。

夜が静かにふけていく途中の時間帯は、特に「生活」が浮かび上がる感じがするのだ。駅から家に帰る坂を登る人、スーパーの袋を両手に持つ人、キッチンの窓から溢れる調理の音、魚を焼いているにおい、、、

今日は、ピアノを練習している音が聴こえてすごく嬉しくなってしまった。あぁ、そっか。こんな時でもピアノの練習はするよね。昨日うまく弾けなかった箇所を、今日は弾けるようになるかな、って練習してるんだよね。

急に、何もかもが止まってしまう訳じゃない。昨日までの生活の流れと共に、今日があるんだ。ピアノの音は、それを思い出させてくれるようで、なんだかとても嬉しかった。



今日は、散歩のついでに100円ショップに寄った。ずっと欲しかったものがあったのだ。

書道セット。墨汁と、筆と、半紙と、下敷きと、硯代わりの小さなすり鉢で、550円。文鎮は、買うのを忘れたので小さな地球儀で。



実は、いりちゃんにこの本を勧めてもらって読んでから、「水墨画」が気になっていた。


『命を見なさい。青山君。形ではなくて、命を見なさい。』
『四時無形のときの流れにしたがって、ただありのままに生きようとする命に、頭を深く垂れて教えを請いなさい。私は花を描け、とは言っていない。花に教えを請え、と君に言った』
自らの命や、森羅万象の命そのものに触れようとする想いが絵に換わったもの、それが水墨画だ。


「描く」ということは、一見何かを対象化して表す、ということのように思える。少なくとも私は、そう思っていた。だが、この本を読み終わった時、目の前に拡がる紙が、まったく違うもののように思えた。描くとは、祝福するということではないだろうか。祈りを贈るということではないだろうか。今この瞬間、見えているもの、描きたいと心が動いたもの。そのいのちを、祝福する。その結果として、それが「絵」と呼ばれるものになったり、「作品」になったりするのではないだろうか。



線を、引く。黒がのびていく。

黒という色は、寂しい色だと思っていたけれど、違うのかもしれない。その奥には、全ての色が宿っているのかもしれない。


一本の線を引くということは、こんなに難しかったのか。

一本の線を引くということは、こんなに果てしなかったのか。


集中が切れた瞬間、線がほどけてしまう。線が、私を見ているかのよう。

線を引くということ。

すごく小さくて、高い高い音を鳴らしているような、何かを信じたいと心を寄せる時のような、そんな静寂。それは、ものすごく豊かな静寂だ。



1ヶ月ほど前、ある人たちと「どうしてこの世界は直線というものに憧れ続けているのだろうね」という話をしたことがある。


あぁ、もしかしたら。

線を引く時にだけ訪れるこの静寂を、誰かが愛してしまっているのかもしれない。

線に憧れ続けるこの果てしなさと、それでも線を引くことで聴こえてくる、手触りのある音こそが、私が私を祝福するという営み そのものなのかもしれないから。



今夜も、散歩の帰り道は、道路に引かれた白線の上を歩いて帰る。

誰かが引いた、ずーっと続く、まっすぐな線の上を、歩いて帰る。



tama







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果てしなさと、在るということの手触りと。
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