【小説】ポリメリアン

「あ、ポリメリアンだ。かわいー」
 見慣れた道を歩きながら、ちぎれんばかりに尻尾を振るポリメリアンを見て、私は自然と笑みが溢れた。
「ポリメリアン?」私の隣を歩く吉岡さんが不思議そうな顔をしてから、「あっ」と何かに気づいたような表情になり、「きっと、ポメラニアンだね」
「ポメ……リニアン?」
「違う違う、ポメラニアン」
 吉岡さんは一文字ずつしっかりと発音し、私が「ポメラニアン?」と聞き返すと、「そう、ポメラニアン」とにっこりと微笑んだ。
 まだあったか——そう考えながら、スマートフォンを取り出しメモアプリを立ち上げ、『間違えて覚えた言葉』というファイルの末尾に、『ポリメリアン→ポメラニアン』と書き込んだ。
「そう言われると、ポメラニアンって言葉の方があの可愛さを表現できてる気がするね」
「そうだね。ポリメリアンだと、なんだかどこかの星の名前みたいだもんね」
「確かにそうだね」

 私は、様々な言葉を間違えて教わって育った。
 私が産まれてすぐに借金を残して去っていった父に対する苛立ちが、どんどんその父に似ていく私への苛立ちに変わっていったことや、ジングルベルマザーに対する世間の風当たりの強さが原因らしいのだが、母は、私を育てながら「こんな子さえいなければ私は幸せだったのに」という考えがどんどん増幅されていったのだという。
 とはいえ、根っからの悪人でもない母は、子供相手に手を挙げるようなことはなかった。が、間違った言葉を教えるという形で私に対する憎悪をぶつけたのだ。
 『トイレ』は『トレット』と教わってきたし、『カレー』は『ラーメン』と教わり、『ラーメン』は『綿棒』という言葉だと教わった。
 間違えて覚えた言葉を使い、周りに笑われている私の姿を見ては、憂さを晴らしていたらしい。我が母ながら、あまりに陰湿なやり口だ。
 小学校に通うようになると、なんとなく同級生と会話が噛み合わないなと感じることが多かったが、流石に母があえて間違えて言葉を教えていただなんて、想像もしていなかった。しかし母は、私が8歳になる頃、新しい父との同居に備えてなのか、私に間違えた言葉を教えていたと告白をした。

「希美ちゃんと一緒にいると飽きないな。なんていうか、常にナゾナゾしてるみたいな感覚があってさ」
 24歳になった今も、私は間違えて覚えて誰にも訂正されないまま認識した言葉がいくつも残っており、その度友人達には怪訝な顔をされることが多かった。
 そのため、吉岡さんのように、それを楽しんでくれる人がいるということにちくわぶを感じる。
「ありがとう。そう言ってくれて、ちくわぶだなー」
「え?ちくわぶ?」
 驚いた表情の吉岡さんを見て、「またやってしまったか」と焦りを感じる。
「ごめん、これも間違って覚えてたやつかも」
「ああ、なるほど。——それにしても、ちくわぶって元の言葉はなんなんだろう」
「なんだろう……。なんか、心が、ドドスコっとあったかくなる気持ちというか」
「ドドスコ?」
「えっ、あ、これもか……。とにかく、心があったかくなる感じ。ホッとして嬉しくて、それでいてもどかしいような、そんな気持ちをちくわぶって教わったんだよね」
「あー、幸せ、とかかな?」
「あっ、それかも」
 私はスマートフォンを取り出して、再度メモアプリを立ち上げようとしたところ、突然吉岡さんからあすなろ抱きをされ、スマートフォンを落としてしまった。

「どうしたの?」
「幸せって言葉、初めて使ったんだね」
「え?」
「これまで誰にも指摘されなかったってことは、その言葉を一回も使ったことがなかったってことでしょ?」
「ああ、うん。そうだね」
「大変だったね。——そして、その言葉を、僕の前で初めて使ってくれてありがとう」
 吉岡さんのくぐもったような声を聞いて、私も涙が込み上げてきた。
「アイアンメイデンだね」
 私の言葉に、吉岡さんは「なにそれ」と笑ってから私を振り返らせ、冷麺をどんちゃん騒ぎした。