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【思考盗聴】誰かが頭を覗いている、あるいは、狂気

男は普通のサラリーマンだった。彼の日常は平凡そのものだった。朝、目覚まし時計の音で起き、コーヒーを淹れて新聞を読み、電車に乗って会社に行く。仕事をこなして帰宅し、テレビを見ながら晩酌をする。そんなルーチンに特別な変化はない。ただ、ある日一つの異変が生まれた。彼は突然人々の思考が聞こえるようになったのだ。

最初は耳鳴りか何かだと思った。たまに会社でノイズを感じる程度だった。けれど、段々感じることが多くなった。ある時は通勤電車の中、ある時は同僚とランチを取っている時、そして取引先との会議中、ふとした瞬間に他人の考えが頭の中に流れ込んでくる。まるでラジオの周波数が合ってしまったかのように、明瞭に、かつ否応なく思考を受信した。

最初のうちは戸惑った。誰かの思考を盗み聞くなど、倫理的に問題があるように思えたからだ。しかし、次第に彼はこの能力を使いこなせるようになった。仕事での交渉や人間関係を有利に進めるために、他人の本音を知ることは極めて有益だったのだ。

ある朝、彼はコーヒーを片手にオフィスに向かっていた。その日は大事なプレゼンがあり、彼はいつも以上に神経を尖らせていた。ふと、隣のデスクに目をやると、隣に座っていた後輩社員の思考が聞こえてきた。

「今日のプレゼン、絶対に失敗できない。上司の期待が高すぎる。」

男はその考えを盗み聞き、その後輩を助けるためにアドバイスを与えた。

「プレゼンのこのあたりを少し変えてみたらどうだ?特にこのポイントに重点を置いて説明するといい。」

後輩は驚いた様子だったが、素直に男のアドバイスに従った。そして、無事にプレゼンを成功させた。その後輩は感謝し、男の評価はさらに上がった。

人の思考が読めるようになってから順風満帆な人生を過ごしていた男だったが、ある日、男は自分の思考が他人に盗聴されていることに気づいた。男が次のプレゼンのために考えていたアイディアをある同僚が突然、口にし始めたのだ。そのアイディアは仔細一致しており、明らかに偶然とは言えなかった。

男は驚きと共に恐怖を感じた。自分だけが特別な存在だと思っていたが、他にも同じ能力を持つ者がいるとは思ってもみなかった。

彼は慎重に行動するようになり、思考を盗まれないように常に注意を払った。しかし、その同僚の方が上手だった。彼のアイデアは次々と盗まれ、仕事の成果も次第にその同僚のものとなっていった。

絶望の中、男は一つの策を思いついた。自分の思考を隠すために、無意味な考えを常に頭に浮かべるのだ。無関係な数字の羅列や、意味のない歌詞を繰り返し思い浮かべた。その同僚は徐々に興味を失い、男の思考を盗み取ることを諦めた。

その策は成功し、同僚は男への興味を失った。そうして、思考盗聴の圧力から解放された男は、今度は自分が同僚の思考を盗聴することにした。同僚の頭を覗き様々なアイディアを盗み、それを発表する。男は再び社内で評価を得ることができた。だが、その同僚も男のように思考盗聴に気付き始めた。そうして、思考の奪い合いが始まった。相手の思考に集中し、深くまで覗きつつ、自分の思考は覗かれないように無駄な考えを張り巡らせる。男は会社で常に気を配っていた過ごしていた。

ある日、男は素晴らしい仕事のアイディアを思いついた。男はそのアイディアを絶対に奪われるわけにはいかなかった。それ以降、会社の中だけでなく、外でも気を抜けなくなった。支離滅裂な思考によって盗聴を防ぐ。だが、そうしているうちに静かに男の精神を蝕んでいった。

ある日の夕方、男はオフィスを出て家に帰る途中、胸に奇妙な違和感を覚えた。街のざわめき、通り過ぎる人々の雑多な思考が、一層強く頭の中に響くようになっていた。まるでノイズが急に増幅されたかのように、耳鳴りと混じり合い、彼の意識を混乱させた。家に着くと、すぐにベッドに横になり、目を閉じて静寂を求めた。しかし、思考のノイズは止むことなく、逆にその強度を増していった。

彼は深呼吸をし、思考の受信を止めようとした。そして、そのために無意味な数字も言葉を頭に思い浮かべ、自分の思考を強めていく。だが上手くいかなかった。頭の中で次々と浮かぶ他人の思考は、まるで奔流のように彼の意識に押し寄せた。誰かの仕事のストレス、家庭の問題、恋愛の悩み、ありとあらゆる人々の内なる声が彼を包囲し、彼自身の思考を飲み込んでいった。

「これは一体何なんだ?」

男は苦悶の声を漏らしながらベッドから飛び起きた。そして、窓の外を見ると、夜の闇の中に無数の人々の影が見える。彼らの影は、まるで彼を見つめているかのように感じられた。

「お前も、聞いているのか?」

その声は彼の内側からではなく、外から聞こえたようだった。男は驚いて振り返ったが、部屋には誰もいなかった。ただ、窓の外の影がますます濃くなり、彼を取り囲んでいるように感じられた。恐怖に駆られた男は、部屋の中央で膝を抱え、頭を抱えた。思考のノイズは一向に止む気配を見せず、彼の精神を蝕み続けた。彼はかつての平凡な日常が、どれほど幸福だったかを痛感した。

「もうやめてくれ…」

彼の心の叫びは、誰にも届かない。自分の思考すら制御できない彼は、完全に無力だった。思考の奔流は、次第に彼の意識を飲み込み、彼はその渦中に飲み込まれていった。その夜、男は死んだ。彼は耐えきれず、自ら命を絶ったのだった。

この一件は自殺として処理された。彼の周りでは話題になったものの、やがて多くの人々の記憶からも薄れていった。まるで彼は初めからこの世界にいなかったかのように。

だが、生前彼は自らの思考盗聴を仄めかしていたことがあった。そして、それを聞いていた一部の人は彼の死と思考盗聴に関係があると考えていた。そして、彼の死に近づいていくことで、彼らもまた、時折他人の思考が聞こえるようになったのだ。男の死は、思考盗聴の終焉ではなく、ただ新たな始まりに過ぎなかったのかもしれない。

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