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【短編小説】悪辣な推論(1)

あるところに男がいた。男は今、宇宙空間を独りで漂流している。

男は真っ白い宇宙服を着ていた。宇宙服は正しく機能しており、エアはまだ十分にあったが、それでも数時間ももたないことを男は知っていた。男は船外調査の折、同僚に宇宙船から突き落とされた。宇宙に上も下もないのだから突き落とされるという表現は正しくないのかもしれないが、男には果てしなく広がる宇宙の闇の中に落とされたように感じた。

男は宇宙船から突き落とされ少しばかり藻掻いてみたが、すぐに何の解決にもならないことを知った。男は自分の命の灯火が徐々に小さくなっていくことを理解していながらも、どんどんと遠ざかっていく宇宙船を背に等速直線運動を続けるしかなかった。男は宇宙船、延いては地球への帰還を諦め、自分の人生を回顧し始めた。なぜこんなことになってしまったのか。男は自分の頭を外界から切り離そうと目を瞑った。眼前に広がる宇宙を知覚すると不安でたまらなくなってしまう。目を閉じ、自分の殻に閉じ籠ることで、男はかろうじて考えに集中できた。そうして、意識が途切れるまで男は過去の自分と向き合い続けた。


男はアルファ国の出身だった。商売を営む両親のもとに生まれた。両親の経営する会社は上手くいっており、世間一般に見ても高給取りの部類だった。男の人生は金銭的困窮とは無縁だった。男は人生で何度か引っ越しをしたが、両親が買った家はどの家もとても広かった。大きなリビングやダイニング、地下室、男の部屋、両親の部屋、書斎、他にも部屋がいくつか。そして、走り回れるほどの大きな庭。どの家も、家の中で孤独を感じれるほどの十分な広さを持っていた。

男が最初の家に住んでいた頃、近所には仲のいい友人も住んでいて、学校が終わればいつも彼らと遊んだ。その頃の男は分け隔てなく人と接する性格で友達も多かった。明るく、そして頭の良かった男は同い年の子供たちのリーダー的存在だった。皆が男を頼りにしていたし、彼もそれが心地よかった。

男は学校でもしっかりものと評判だった。先生たちはクラスで何かあると男を頼った。そして、男もその期待に応えた。人によっては面倒と思える雑用も文句の一つも言わず男はこなした。クラスメイトの保護者達はそんな男の様子を見て、自分の子供もああなってほしい、どういう育て方をしたらあんなに立派な子が育つのだと褒めたてた。

この町のどこにも男を悪く言う人はいなかった。男の人生は幸福に満ちていた。


だが、男の幸せな時間は長くは続かなかった。13歳の頃に親の仕事の都合で隣国に移り住むことになった。隣接している国々というのは仲が悪いのが相場であるが、アルファ国と隣国もその例に漏れず仲が大変悪かった。誰も知らないほどの大昔から仲が悪く、前の世代がお互いを嫌い合っていたから次の世代もお互いを嫌い合い、次の世代がお互い嫌い合っていたから、そのまた次の世代もお互いを嫌い合った。果てのないその繰り返しが両国の関係を作っていた。

男は、なぜ自分たちが隣国に引っ越したのか、仕事の都合とはなんだったのかを知らなかった。そもそも、両親がどのような商売をしていたのかさえも知らなかった。子供の頃に一度貿易関連の仕事をしているのだと聞いたことがあったが、男はそれ以上の情報は持ってはいなかった。大人になってからも聞ける機会は幾度となくあったが、正直なところ、男は両親がどのような仕事をしていたのかなど知りたくもなかった。男にとって両親の仕事とは、自分を不幸のどん底に叩き落とした加害者のようなものだった。大人になり、理性的に物事を見られるようになってからも、その思いは変わらなかった。両親が仕事の都合で隣国に引っ越すなどと言わなければ、自分はもっとまともな人生を送っていたかもしれないのだ。

男が両親の仕事を憎むほどに、隣国での生活はひどいものだった。子供の頃というのは、自分の通う学校が社会そのもので、その外にも世界が広がっていることを知らないものだ。仮に頭で理解していても折り合いを付けられるものではないのだ。多くの学生には、学校生活の充実が人生の充実であり、学校生活の不満足は人生への不満足となる。男もその例外ではなく、最低な学校生活は男の人生に深い絶望をもたらした。

男は転校初日から人の悪意というものを身をもって体感した。アルファ国では誰も男に悪意を向けなかった。大人も子供もみなそうだったが、ここでは大人も子供もみな男に悪意を持っていた。子供たちは男がアルファ国人であることを知ると、皆こぞって男をいじめた。臭い。汚い。卑怯もの。心ない言葉が男を襲い、男の心を深く傷つけた。子供たちが男をいじめた理由の中に男個人に由来するものはなく、ただ出身や外見、文化など男の何もかもがアルファ国に根ざしているというだけだった。

男は最初、なぜ自分がいじめられるのかがわからなかった。自分が何をした訳でもない。そもそも話をしたこともない人間でさえ自分を嫌っている。稀に好意的に接してくれる人間もいたが、彼らは比較的ましな態度というだけで、その瞳の奥には悪意を携え、男を下に見ていることが感じ取れた。彼ら自身、男と話したいとは思っておらず、ただ悪意を表出させなかっただけだった。それでも表立って悪意を向けてこないことは、男にとって非常にありがたかった。何かわからないことがあれば、男は彼らに聞けばいい。嫌な顔をしながらも、彼らはそれを教えてくれる。

あるとき、男は彼らに自分がいじめられる理由を聞いた。なぜ僕に悪意を持っているのか、僕が意図せず何かをしてしまったのか。加害者の言葉を直接聞きたかった。男が尋ねると、彼らの内の一人がそんなの決まっていると言わんばかりの表情で「君がアルファ国人だからだろ」と教えてくれた。


男は転校してからも持ち前の頭の良さで成績をキープし続けていた。男がアルファ国にいた時に通っていた学校は比較的レベルが高く、同世代の子供たちが学ぶ内容よりももっと先の内容を教えてくれた。しかし、転校先の学校はそれほどレベルが高くなく、男にとって一番を取ることは容易だった。だが、男を快く思わないもの多くのクラスメイトたちにとって、男の成績が良いことは不満の一つだった。彼らは男がいつもいい点を取ることを妬み、男がカンニングをしていると濡れ衣を着せ、触れ回った。すぐにその噂は学校中に広がり、男は先生に呼び出された。男はカンニングはしていないと否定をしたが、多くの人間がそう言っているのだという多数決の原理で男を信じようとはしなかった。

次のテストを受ける際、男は別室で受験をすることになった。それは男の無実の罪を晴らすためではなく、男のカンニングを証明するためだった。これらは同じようで全くかけ離れたものだった。男はカンニングなどしていないから、ただ別室でテストを受けるだけでよかった。そうしてテストが終わり、男は依然と同じように高い成績を収めた。「少なくとも人の答案は見ていないようだな」と先生は言った。

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