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文章としての父と、幻想の過去

 父と離れて10年以上になる。年に一度は顔を合わせるものの、私の中での父という概念は未だ、幼稚園に通っていた時期のもののままだ。


 ざっくり言うと一番の理由は父の仕事の都合で、そうなるまでには紆余曲折。書くほどでもないが。ともかく私は今も父と約800キロほど離れて暮らしている。数字としての距離はたった今Googleマップを開いて知った。なるほど、彼は案外近くにいるらしい。

 幼い頃の私は、それなりに父に懐いていたと思う。平日は夜勤続きでほとんど合わなかったが、日曜の朝、目を閉じた父の懐に潜り込んで観る教育テレビが好きだった。大きないびきをかくたびに震える胸が暖かくて、ふと目覚めては頭を撫でるその感触がたまらなく幸せで。そんなワンシーンを思い出す。
 思い出は美化されるもので、よくよく思い出してみるとそんな日曜日は数えるほどしかなかったし、幼稚園に入る前までの短い期間だけのことだったのだけど。幼少期の思い出なんて美化されてこそだよね。

 両親は不仲だった。それはもう、かなり。離婚が珍しいものでもない時代に離婚に踏み切らなかった理由はほぼ間違いなく私(と姉)で、子はかすがいなんて言葉が吐き気がするほど嫌いだった。子供が可哀想、というよりは経済面での問題が大きかったのだと思う。毎日怒号と物が飛び交う中で、姉と二人小さくなって過ごした。そのおかげかは知らないが、私たち姉妹はいっそ珍しいほど仲が良い。
 こてこての家族愛的なものがテーマのドラマなんかでは、子供が両親の仲直りを願ったりする。しかし、もはやそんなのはどうでも良かった。私たちを理由にしないでほしい、早く離れたら良い、今すぐピリピリした日常から解放してほしい。他人事みたいにそう思っていた。

 だから、父が離れて暮らすことになったときは寂しさの前に安堵してしまった。もう負の感情のぶつかり合いを見なくて良いんだ、半分だけで良いんだ、と。母の感情のベクトルが私たちに集中するのは目に見えていたが、私は自分に向けられるほうがマシだ。
 それでも幼かった私が寂しく思う気持ちは本物で、父と縁遠くなることを望む自分が最低な気がした。

 良いところだけを切り取って大切に仕舞われた思い出と、拭いきれない苦々しさ。この二つが同居していた頃の父の遠い記憶だ。

 直に離れて暮らすようになり、最初は寂しくて仕方なかった父の不在も、日に日に薄れていった。父は精神的にも遠くなっていく。今のようにスマホなど持っておらず、私の帰宅時間を狙ってかかってくる固定電話での通話だけで繋がっていた。
 父からの電話の内容を母には言えなかった。大した話はしていなかったけれど、余計な情報を流していると見なされるのが怖い。たまに電話がかかってくるという事実だけを報告して、いつ何を話したかについては頑なに口を閉ざした。父への電話内容も母に叱られない程度に気をつけて、「元気?」と問われても「母が風邪をひいている」なんて決して応えてはいけないのだと学習していった。

 電話の内容がどんどん薄くなっていく。あるとき母方の祖母が病を患った。父は義母を気にかけていた。普通なら言うべきだ。いや、言えない。

「父に言ってはいけないよ」

 どうして? なんて聞けなかった。聞かなくてもなんとなく分かる気がした私は母に肩入れしているのだろうか。両親に対してどっちの味方か、なんて考え方したくないのに。

 もし万が一、祖母の体調は? とピンポイントで尋ねられたらもう隠せないと思った。自発的な報告でなければ許されるはずだ。怖くて電話を取るのが嫌になった。たまに使う居留守に罪悪感が募る。
 結局、祖母が寛解した頃に盆休みとして尋ねた父が直接知った。どうして教えなかったのか。はっきりとは言われなかったがそういう声色の電話。言うべきだったなんて気づかなかったようなふりをした。気の利かない子どものふりをした。子どもというブランドは便利だ。小学生にだってそれくらいの分別はついたのに。

 母と父との板挟みになるのは同居していた頃からだ。父に同情的な姉。母に逆らえない私。それなりにバランスがとれていたはずなのに、電話では私は一人だった。お姉ちゃん、どうしたら良い? 聞きたい姉は大抵私より後に帰ってくる。母のいない時間にかかる電話に出るのは私。いつまでも甘ったれた末っ子ではいられない。

 帰宅時間も遅くなり、だんだんと電話もない日々が続くようになった頃、スマホを持つようになった。父とのやり取りは専らLINEに頼りきりになった。

 疎遠になりつつあったので、そう頻繁にはやり取りしない。基本的に父からメッセージがあったときに返信するだけで、あとは業務連絡的な必要事項のやり取りだ。文章は良い、と思ってしまう。母に気づかれないし、誤魔化しやすい。悪いメリット、と矛盾したことを思う。

 そんなときに受け取る父の文面は泣きたくなるほど優しい。メールのように長文を一度に送ってくるのも、公式のスタンプを楽しそうに使っているのも、なんだかどうしようもなく涙が出そうになった。私はいかに両親の機嫌を損ねないかと卑屈なことを考えて文字を打っているのに、普段は聞いたこともないような柔らかい言葉と文調で私を気遣うのだ。


暑いけど、体調は大丈夫かな?

勉強大変だろうけど、頑張ってね。

応援してるよ。


 そんな、そんな。知らなかった。文章は顔も見えないし声も聞こえないから感情が伝わりにくい、なんて誰が言い出したのだろうか。私だってそう思って父を誤魔化そうとしていたのに。こんなに優しい口調で話す彼の声は頭の中では流れない。記憶は棘のある喧嘩中の声に侵食されている。それなのに、確かに優しさが溢れているのを感じるのだ。むず痒い。こんな文章を書く人だったんだ。

 距離を置かないと気付かないものがあるという。だけど、距離を置いてからそのまま遠ざかっていくように感じていた。そんな父が、文章によって急に近くにいるように感じた。


 私たち家族はもう戻らないと思う。戻るも何も、みんなが仲良しなんて幻想は過去の記憶を洗い出してもほとんど見当たらないのだけれど。

 私たちが産まれる前や生まれたばかりの頃、きっと穏やかな時間があったはずだと夢だけを見てきた。父の新しい一面に触れて、その幻想が一瞬本物のように輝いた。もうそれで十分だ。

 私は、家族は一緒に暮らすべきだとは必ずしも思わない。寂しい夜もあった気がするし母には苦労をかけてしまったが、昔の危うい生活のままではいつか破綻していた。それでも両親の円満な過去を夢見る程度には私は彼らの子どもなのだ。

 過去に優しいものがあったかもしれない、というただの独り言。

 今の父に優しいものを見つけた、という事実。

 文章としての父も、確かに父の一部なのだ。


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