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酸っぱいブドウはどこにある

あっちの方がいい。こっちの方が正しい。

そんな比較が苦しみの始まりだ。

人は自分が手に入れることができなかったものに対して執着を見せてしまう。

手に入れられなかったことが悔しくて、何としてもそれを手に入れようとすることもあれば、

手に入らなかったものを、実はそんなに大したことないと否定することで心を安定させようとすることもある。

いわゆる「酸っぱいブドウ」というやつである。

なぜそういうふうに考えるかと言うと、

手に入らなかったものが、なんだか自分を否定しているように感じるからだ。

否定されるのはつらいし、惨めだ。
だから、それに対抗する形で、自分も対象を否定する。

だが、これはなかなかに不毛な道だ。

なぜなら、いくら否定したところで、その対象がこの世界から無くなるなんてことはないからだ。

それが形あるものでも、形のないものでも同じ。

否定すればするほど、それに固執するようになる。
自分が手に入れられなかったものを、手に入れた人間に対して嫉妬してしまったりする。

全く自分に無関係の人間に対してもだ。

ますます泥沼だ。下手すると自分の人生の大部分を、相手に対する嫉妬と、自分に対する無力感に費やすことになってしまう。

これを何とかするには、思考を切り変えるしかない。

酸っぱいブドウなど無い。
あれは「おいしいブドウ」なのだと認めてしまうことだ。
だが、自分にはどうやら今のところ縁は無いらしい。

だったら、他の場所を見てみることだ。
世の中には、おいしいブドウしかないわけではない。

「おいしいリンゴ」も「おいしいミカン」もあるのだ。

そっちを探しに歩いたほうがよほどマシだ。

あれはあれでいい。でもこれもこれでいい。

酸っぱいブドウという思考に縛られて、
恨みつらみ、妬み嫉みにまみれるくらいなら、

楽しいほうに目を向けたほうがいい。

楽しいもの、良いものに向かって歩いているその道中に、既に意味があるのだと僕は思うのだ。

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