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そんなに意識しなくていい

「共存」するために「共感」よりも大切なこと。

生きていくのに、気を張りすぎてしまう人も多いだろう。

自分がどんなふうに見られているか、変に思われていないか、誰かの気分を害していないか。

絶えず誰かの顔色をうかがっている。

そういう人は、とにかく否定されるのが怖いのだ。

だから失敗しないように、失敗しないようにと常に気を張って、失望されないよう、否定されないよう、先を読んで行動しようとする。

こうすれば怒られないのではないか、ああすれば失敗しなくてすむのではないか。

それで上手く行っても、上手く行った喜びよりも、下手をしなかった安堵感の方が勝ってしまう。

そして、そうそう毎回上手くいくわけではない。
そんな思考回路の人は、失敗しないことが最低ラインなので、ちょっとした失敗でも傷つき、落ち込む。

そして、もっと上手く立ち回らなくてはと思うわけだ。
そんな時、もっと他人の考えていることに共感できれば、上手く行動できるのではないかと思ってしまう。

だけど、他人のことばかりに気を遣って、自分自身に対しては無頓着になっていないか?

「花や植物が人間にとって慰めになるのは無関心だからだ」

確かにそうだ。植物はこちらの事情などお構いなしに花を咲かせる。
咲きたいと思っているかどうかも分からない。
ただ自然に任せて、時が来ればそのようにする。

もし、気候の条件が揃わず、花を咲かせられなかったとしても、たぶん植物は後悔や自分を責めるといったことはしないだろう。
ただそうなっただけだ。

それくらいの心持ちでいいのかもしれない。
他人の心など、理解できなくて当然なのだ。
それでも共存していくことはできる。

大切なのは、ただその瞬間に集中することだと思う。

「忙しなくあちこちに移動したりしていると、変化ではなく結果だけに気付くんですよね」

僕たちは結果だけに目が行きがちだ。

結果だけ見れば、あれがこうだ、それがああだと、一喜一憂してしまう。

だけど、世界には結果だけがあるわけではない。その結果に至る道筋があるわけで、

また、その結果も視点を変えれば、別の結果の通過点に過ぎなかったりする。

全ては繋がっている。それが起きたのは、ただそれが起きたのだ。
原因を考えれば、一つや二つは思いつくかもしれない。
だけど真実は、もっと無数の原因が重なって、もうその結果しか出ないというのが本当のところではないだろうか。

たぶん、その日の気温や湿度すら関係していると僕は思っている。

全ては僕たちが歩いている道の一部にすぎない。
自分にとって悪いと思っている結果と、道端に落ちている石ころは本質的には同じだ。

その石ころもいきなりそこに現れたわけではない。そこに落ちているのは、ちゃんと原因があるからそこにいるのだ。

だから大切なのは、結果に一喜一憂することではなく、ただ今起きていることに目を向けて、そのまま受け入れることだ。

10ポイントの嫌なことが起きたら、ただ10ポイントで受け入れる。

そこに余計な、想像や妄想を貼り付けて、10を100にも1000にもしてしまうから問題なのだ。

道を歩いていれば、綺麗な花を見つける時もあれば、犬のウンコを見つける時もある。

ただ、それだけだ。
もっと気楽に、道の変化に気付くように、歩いて行ければいいと思う。

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