常識という名の設定
普通に考えて、常識的に考えて、当たり前。
誰もが、普段から何気なく使っているであろう感覚。
でも、これが思わぬ落とし穴になっている。
普通とか、常識というのは、ある程度は多くの人に共通するものがあるとは言え、決して絶対的なものではない。
むしろ、普通に考えてとか、常識的に考えて、とかの言葉が出てくるときは、
多くの場合、その人自身の「設定」である可能性が高い。
普通とか常識というのは、あくまでその人が今までの人生で得てきた知識や経験、誰かの受け売り、誤解や思い込みまで含めて、
それぞれの人が勝手に作り上げてきた一つの塊のようなものに過ぎない。
だけど、その自分で作った設定を、まるで世界共通の認識であるかのように思ってしまっている。
だから、普通や常識から外れた何かを見ると、
激しく怒ったりする。
あり得ない、それはおかしい、非常識だ、不謹慎だ、と。
だけど、言った通り、それはあくまでそれぞれの人が勝手に作った、
常識とか普通とか、そういう名前が付けられた「設定」だ。
もし、真夏の日中に、室内でエアコンの暖房を付けて、
暑い暑いと言っている人がいたら、
悪いのはエアコンだろうか?
違う。真夏なのに暖房という設定をした人だ。
もし、他人の言葉や行動、世の中で起こっていることに苛立ったり、不安を覚えたり、心配したりするようなことがあったら、
その対象に自分の感情とか意見をぶつけるよりも、
まずは、自分の中の「設定」を見てみるのはどうだろうか。
他人は他人で、それぞれの「設定」の中で生きている。
他人の設定を変えることはできないが、自分の設定だったら自分の自由だ。
これまでだったら、我慢ならないほど怒っていたものが、案外そうでもなくなるかもしれない。
設定は変えられるし、もし変えられないとしても、それは自分のことなのだから、他人や外の世界に不要な感情は向かなくなる。
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