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恐怖は使いこなすもの

人がなかなか行動できないとき、

その根底には「恐怖」がある場合が多い。

恐怖とは、過去に起こったことがまた起こらないか、

まだ経験したことはないけど、ひどいことが未来に起こるのではないか、

そんな不安から来る感情だ。

それがあるということは、人間が生きていくうえで必要だからあるのだろうが、

その恐怖が、人の心を弱らせ、時に一歩も動けなくさせてしまう。
生きていくうえで、大きな障害になってしまうこともよくある話だ。

人が生きていくうえで、人の邪魔になるものが人の中にあるとは考えにくい。

ということは、たぶん僕たちが、恐怖というものを間違って捉えているのではないだろうか。

たぶん、ずっとずっと大昔には生きていく上で恐怖は重要だったのだろう。

何か選択を間違えれば、猛獣に襲われたりするような、生き死にに直結するような時代なら、なるほど恐怖は重要なツールだったろう。

でも、人間の祖先が出てきたのが何百万年も昔であり、ホモサピエンスもおよそ30万年前の存在。

恐怖というものが人間の本能だったとしても、

その使い方は、もういい加減昔のままでいいなんてことはないはずだ。

今の時代の恐怖の使い方。
それは、単なるアラームとしての使った方がいいと思う。

僕たちは車がビュンビュン通る横断歩道を赤信号で渡ったりしない。

そんなことをすればどうなるか想像できるからだ。
大怪我か、最悪死ぬ。

では、赤信号で立ち止まっている時、心の中は車に跳ねられる恐怖でいっぱいだろうか?

そんなことはないはずだ。
車に跳ねられる恐怖から赤信号で止まっても、その恐怖に怯えることはない。

これと同じで、恐怖とは自分の身を守るために、自分自身に教えてくれているアラームみたいなもので、

まずはただそれだけの機能だということにしておけばいい。

そして重要なのは、そのアラームについてしっかり検討することだ。

例えば、学生だったら明日のテスト。会社員だったら明日の重要な会議。
どちらも、失敗したらどうしようという不安や恐怖に襲われるだろう。

だが、さっき言ったように、恐怖とは本来生き死にに関する場面で使われるものだった。

テストや会議で使うには少々力が強すぎる。

だからこそ、恐怖を感じた時には、その恐怖を無理やり消そうとしたり、否定しようとするのではなく、

まず、ゆっくり受け入れることだ。そして、その中身をよく検討する。

その恐怖は過去の失敗から来るものか?
だとしたら、それはもう終わったことだ。

それとも、失敗したら大変なことになるんじゃないか?
バカにされるんじゃないか?
評価が下がるんじゃないか?自分という存在が否定されるんじゃないか?
そのような未来が起こってしまうのではないかという不安だとしたら、
それは、まだ来ていない未来に対する自分の妄想ではないのか。

ずっとずっと大昔の人間は、現代人に比べ、行動する範囲も、知っている知識も、所属する集団の構成も、
もっと小さく、もっとシンプルだったはずだ。

だけど、いろいろと複雑な現代では、大昔のままの恐怖の使い方では、そりゃ心のどこかが壊れてしまってもおかしくはない。

壊れるまでいかなくても、常に人は何かに怯えながら暮らすことになってしまう。

不安や心配といった恐怖は、消そうと思って消せるものではない。それをしてしまったら人としておかしくなってしまう。

大切なのは使い方だ。
怖いものは怖いんだから、怖がるのは当たり前だ!

と、恐怖の好き勝手にさせていたら、
たぶん、お金とか地位とか、フォロワーとか、いくら積み上げたところで人は安心して生きていくことはできないだろう。

恐怖とは自分のものである。
だったら、しっかりと使いこなしていくべきなのだ。

心に使われるのではなく、心を使っていこう。

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