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自分がそう思っているという自覚

SNSが発達して、誰もが自分の考えや信条をいつでもどこでも発信できるようになった今。

自分が思っているけれども、なかなか言えないことを代弁してくれているような人には、会ったことも無いのに、時には本名も顔も分からないのに、

大きな信頼を寄せてしまうことがよくある。

あの人は正しい。
あの人の言っていることはもっともだ。

だが、ここで気を付けなければいけないのは、

正しいのは、「その言葉を発している人」ではなく、

「その言葉を発している人を正しいと思っている自分」がいるだけだという自覚を持たなくてはいけない。

こうしないと、相手に責任を負わせてしまうことになる。

これの何が危ういかと言うと、

テレビだろうが、ネットだろうが、実際の身近な人物だろうが、

その人が自分の考えと同じ方向のことを言ってくれているうちはまだいい。

だけど、この世に全て同じ考えを持っている人間などいない。

ある時、自分が信頼していた人が、自分の思う道と全く違う道を選ぶことだって普通にあり得るのだ。

そんな時、「あの人は正しい」としていると、そこから出てくるのは恨み言だ。

そんな人とは思わなかった。
裏切られた。

などと、全てを相手のせいにしてしまう。

だけど、「あの人は正しいと思っている自分」をちゃんと自覚していれば、

自分の見方が甘かったのかもしれない。
自分の方の考え方に誤りがあるのかもしれない。

と、自分を見つめ直すことがまだ可能である。

誰かを勝手に全面的に信じ、その人が自分の考えに沿っていてくれれば喜ぶが、ちょっとでも自分の考えと違う行動を取ったら、途端に騙されたような気持ちになる。

これは、相手の行動の一挙手一投足に自分の心を委ねてしまっている状態で、もはやそれは自分の人生ではない、と言えるのではないか?

全ての責任は自分で負おう。

何を思い、何を感じ、何を考え、何を信じ、何に喜び、何に悲しむのか、

それは全て、自分のせいである。
決して、他人に委ねてはいけないのだ。

自分の思考や感情を自分の責任にすれば、ではそこからどうするか、考えることができる。

自分が正しいと思っていた他人や何かが、自分の都合と違ってしまった時、それを再び自分の都合のいい方に変えようなどという、

絶対にコントロールできない他人を、コントロールするよりも遥かに易しいことだと思う。

自分の心は、全て自分でケリをつける。
この覚悟こそが必要なのではないだろうか。

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