空想お散歩紀行 美しき多様性の社会
社会には当たり前過ぎて、もはや誰も意識しないことが多く存在する。例えば、外に出る時は服を着るというレベルのものだ。
『現在のレベルは3で設定されていますが、変更なさいますか?』
「いや、このままでいい」
部屋の中で一人呟いている男がいた。
彼の耳元から聞こえてくる声に答えている。
それは身につけているデバイスからの電子音声だ。
街に出ると、多くの人が行き交っている。子供から老人、男に女。
所属も仕事もバラバラな彼らだったが、一つ共通点があった。
それは皆が皆、全員眼鏡を掛けているということだ。
「次の予定はアクテム社で会合だったな?」
『はい、目的地までのルートを表示します』
男の視界には道路上に青い線が引かれている。
正確には眼鏡のスクリーンに表示されているのだが、実際の道路に線が出現したように見える。
このように眼鏡型デバイスは、生活に欠かせない機能を搭載した物となっている。
通信、情報、買い物、あらゆる日常生活のサポートをこのAI搭載眼鏡型デバイスが担っている。
かつての世界では携帯電話なる物が普及していたが、手に持つ端末というのがもはや過去の遺物だ。
もし、眼鏡を掛けていない人間を外で見かけたら、あの人はどうやって生活をしているのだろうと不思議がられるくらいには、このデバイスは人にとって体の一部と言っても過言ではないかもしれない。
だが、このデバイスが普及したのは、単に情報端末として優秀というだけではない。
一番の特筆すべき点は、これが装着者にとって心地いい世界を作り出すからだ。
過去、世界でやたら『多様性』という言葉がもてはやされた時代があった。
全ての人間がどんな属性を持っていようと、それは自由であり、認められるべきことであるという考え方だ。
一見すると非の打ちどころの無い思想のように思えるが、これを採用する人間の方に問題があった。
どんな価値観や感情も多様性というオブラートで包んでしまった結果、対立があらゆるところで起こった。
誰かの快は別の誰かの不快であり、誰かの不快はまた別の誰かの快なのだ。
結局、多様性と言いながらお互いが自分の価値観を押し付け合い、他方を世界から排斥するという当初の理想からほど遠いものとなってしまった。
しかし、その長い対立に疲れを覚え始めた人々は徐々に気づき始める。
もともとの考え方に問題があったのではないか。
多様性とは、全員の価値観を認め合う世界ではなく、自分が理解できない価値観からは距離を取って放っておくという世界だということに。
そこで開発が進んだのが、この眼鏡型デバイスというわけだ。
今、この男の視界にはいくつもの情報が飛び込んできている。
街中にある様々な看板などがいい例だ。
だがその中に少しだけ不自然な物があった。
とあるビルが掲げる看板の一つが、可愛らしい動物の姿になっている。
これは現実がそうなっているのではない。彼の視界の中だけで起きている現象だ。
これがこのデバイスの一番活用されている機能、自動視界フィルタリングだ。
彼は暴力的なものを好まなかった。だから、そのような傾向がある情報が視界に入ると同時に、眼鏡型デバイスのAIがそれに別の画像を重ねるのだ。
こうすることで自分が不快だと思う情報に触れることがなくなる。
世界は今、かつてないほど様々な情報で溢れている。まさに千差万別、子供向けの平和なものから、大人向けのセクシーなものまで、かつてなら距離を取って置かれていたものが、今では隣同士で平気で存在している。
だが、それを見る人間の方が、自分の好きなように世界を選別している。
同じ空間にいながら、全ての人間が違う世界を見ているのだ。
もしこの眼鏡がある日、世界中で使えなくなったとしたらどうなってしまうのか。
もはやこの時代では想像すらできない。
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