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ローカルシフトの哲学 ー 「内なる声」と価値判断について

何と大袈裟な。。というタイトルかもしれないけれど、一度整理をしておきたいことがあった。それは「ローカルシフトの哲学」。移住とローカルシフトについては、これまで仲間とさまざまな議論をし、実践をしてきた。

その中でも一番しっくりするものとして、「内なる声」というキーワードがあった。ローカルなものに注目して活動をしている人、その中でも仲間になれそうな人というのには共通するところがあって、それは「内なる声」つまり、何が良くて何が悪いか、何がワクワクして何にワクワクしないか、そうした価値基準を自分の中に持っている人、というものだった。そこで、キーになりそうな「価値基準」ということについて考えて、自分がローカルシフトを続ける上で何を大切にしていくべきか、考えてみたい。

価値評価の方法

「こんなことがあるのだろうか!あの老人の聖者は森のなかに閉じこもっていて、まだ何も聞いてないのだ!神が死んだ、ってことを」──

ニーチェ. ツァラトゥストラ(上) (Japanese Edition) (Kindle の位置No.108-110). Kindle 版. 

神は死んだ、というニーチェの言葉はあまりに有名だが、これはキリスト教の価値観を否定しただけでなく、宗教や社会を含めた自分の「外」に存在する絶対的な価値尺度がもはや存在し得なくなったことを宣言したものだ(そしてそのことに気づいていない人についても糾弾される)。

その上で、ニーチェは、僧侶的価値評価法としての「善(gut)/悪(böse)」貴族的価値評価法の「よい(gut)/わるい(schlecht)」を区別し、前者を痛烈に批判した(『道徳の系譜』)

僧侶的価値評価の「善(gut)/悪(böse)」は、神(現代日本の文脈で言えば、あえて「社会」と言い換えても良いのではないかと思う)から見て善い行いか悪い行いかという判断であり、価値の尺度は自分の外である宗教や社会にある。その究極形が「強い者は悪い、弱い者こそ善い」というキリスト教的価値観である。

日本社会においても、経験を重ねた歳上の人ほど善いという「年功序列」や、女は家で家族のために尽くすのが善いという「男尊女卑」などの(儒教的)思想が僧侶的価値評価として依然としてあるのではないかと思う。そして、資本主義世界の中ではGDPや爆速成長がここでいう「神」かもしれないし、会社の中に入ると大企業・ベンチャー問わずそれぞれの会社の「神」、つまり絶対的な価値観があったりするだろう。

それに対して、貴族的価値評価の「よい(gut)/わるい(schlecht)」は、自分が「イイね!ワクワクするカッコいい!/ダサい、なんか嫌だな。。。」と思う評価軸であり、価値尺度はあくまでも自分の「外側」でなく、「内側」にある。「貴族」と聞くと、なんか偉そうだなーとアレルギーを起こす人もいるかもしれないが、ここで言う貴族とは自分の価値判断を「そうだ!」と真に自己肯定できる人のことなのである。そして、この価値判断こそ、自分自身の内側から湧き出る軸であり、ワクワクであり、「内なる声」そのものと言えるだろう。

僧侶的価値評価の再生産

東京のオフィスの中にいると、GDPとか経済成長とかSDGsとか色々な指標を次々と参照させられるかもしれない。学校の中にいると、期末試験の成績とか模試の偏差値を競い合って、それを目標にせざるを得なかったりもする。

私自身も、自分ではそれほど意識をしていなくても、就職をするときやその後の大学友人の活躍などを見るにつけ、グローバルに活躍したり、大規模なプロジェクトをしたり、組織の役員になったりすることが、「善いこと」だと思うようになっていることもあった。

厄介なのはその基準が自分を取り巻く社会や会社に絶対的な価値尺度、惰性的な価値尺度としてあることを忘れてしまい、あたかも自分の心の内から湧いてくるように思えてしまうことだ。例えば新入社員の時は「カッコ悪いなぁ」と思っていた慣習や「それは違うだろ」と思っていた事業の目標や上司の発言に、2年か3年もすればいつの間にか慣れてしまい、それを自分から再生産してしまっているというのも、私だけの話ではなさそうだ。

ミシェル・フーコーは「エピステーメ」という概念を用いて、人間はその時代の知の枠組みから免れられないことを明らかにした(『言葉と物』)。これは価値判断どころか認識や思考そのものが時代に規定されているというもう少し深い話なのだと思うが、会社などの一つの組織の中でならなおさら、個人の知が呪縛されるということも言えそうだ。そして自分の「知」、「内なる声」を失う。

自分の「内なる声」では全く良いと言えないものが、組織や社会の中では絶大かつ絶対的な価値を持ってしまう。そこには僧侶的価値判断によりその評価の枠組みをより強固にする人たちの存在があるし、自分自身もいつの間にかそれを再生産する存在になっている可能性がある

グローバル、都市的なものへの違和感と「疎外」

私の場合はそうした価値尺度から脱するきっかけとなったのが子育て、そして移住だった。経済成長やグローバルといった社会的な価値基準から一旦離れて、何が本当に自分がワクワクできることだろうか、という自分の中の価値尺度を取り戻すこと。それが「内なる声」を取り戻すことそのものだと思う。

東京で12年間、いわゆる「まちづくり」や「組織」の仕事をする中で、大企業の利権調整のプレッシャーを感じたり、膨大な社内調整に追われたりする中で、いろいろなモヤモヤを感じていた。まちづくりに関しても、数千億円のプロジェクトというとあまりにスケールがデカすぎて、そして、そのスケール自体がもしかしたら「幻想」かもしれないという疑念の中で、自分のやった仕事が自分のものではないという「疎外感」を感じていた。「疎外」、つまり人間が作ったものが人間から離れて、逆に人間を支配していくような力は、まさにグローバル資本主義やメトロポリスの空間の中で極大化されるように思う。

東京の高層ビルが、ぶよぶよに太って歪んだ無機質な塊に見えたとき、僕はその疎外に耐えられなくなった。

地方に行けば、よりリアルなスケールで手触り感のあることができ、より「地上」に近づくことができるのではないか、という直感があって、移住をした。一部の人から見ると「地方に行って実践をしている人」ということになりそうだが、自分の中ではまだまだ「地上」(つまりローカル)に着地していない部分があって、しっくり来ていないことも多い。それも一つの大切な「内なる声」だ。

「綱渡り」を始める

人間は、1本の綱だ。動物と超人のあいだに結ばれた綱だ。──深い谷のうえに架けられた綱だ。向こうへ渡るのも危険。途中も危険。ふり返るのも危険。ふるえて立ち止まるのも危険。人間の偉いところは、人間が橋であって、目的ではないことだ。人間が愛されるべき点は、人間が移行であり、没落であることだ。

ニーチェ. ツァラトゥストラ(上) (Japanese Edition) (Kindle の位置No.159-163). Kindle 版.

内なる声を取り戻し、それを「実践する」こと。それこそが、いまの人間を超えようとして「超人」に至る一本の綱を渡りゆく人、そのものの姿なのではないだろうか。

幸いなことに、長野県に移住をしてから、超人への綱渡りを始めている多くの人に出会い、勇気をもらうことができた。

もしかしたら、綱渡りから落ちるかもしれない。落ちた人も見てしまったかもしれない。僕はそれでも、傍観する末人ではなく、この地上で綱を渡る人になりたい。

俺が愛するのは、没落して自分を捧げる理由を、まず星のかなたに求めようとはしない人間たちだ。連中は、この地上がいつか超人のものになるようにと、自分をこの地上に捧げるのだ。

ニーチェ. ツァラトゥストラ(上) (Japanese Edition) (Kindle の位置No.166-167). Kindle 版. 

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